第37話 俺、今めちゃくちゃ調子いい
巣穴の奥から吹く風は、迷宮の底と同じ匂いがした。
魔素の、淀んだ匂い。忘れようもない。あの黒いもやの、粘つく気配の、薄めたやつだ。
「……入るの?入っちゃうの?報告して、ギルドに任せるんじゃなくて?」
「沙耶。ギルドに“淀みの匂いがしました”と報告して、調査隊が来るまで何日かかる。その間に、この穴の“おいしそうなの”とやらが手遅れになったら?」
「ぐ……正論を装った好奇心が憎い……」
「それに、だ。俺たちには今日、専門家がいる」
俺は、隣のフードを見た。ヴィクは、穴の奥を睨んだまま、頷いた。
「……行く。これは、僕が確かめなきゃいけないやつだ。お前たちは、外で待って——」
「「「「行く(わ)(ん)」」」」
「即答するな!!少しは迷え!!」
——巣穴の中は、土竜獣が掘ったにしては、様子が違った。
入り口近くこそ、シャベル状の爪痕の残る獣の掘り跡だったが、奥に進むにつれ、通路は古い岩の裂け目に変わった。天然の洞窟だ。壁は黒く湿り、空気は重い。
「……こいつ、洞窟を見つけて、住み着いただけね。掘ったのは入り口だけ」
「そして、この最悪の空気だ。あの土竜獣、こんな場所によく住んでたな」
「たぶん、住んでたんじゃない。……“見張ってた”んだと思う」
ヴィクが、ぽつりと言った。
「見張る?何をだ」
「それを、今から確かめる」
洞窟の最奥は、小さな広間になっていた。
そして、そこに、それはあった。
広間の中央。岩の窪みに、黒い靄が、小さな池のように溜まっていた。深さは膝ほど。表面が、油膜みたいに、ゆっくりと渦を巻いている。
迷宮の底で見た、淀みの海の、ほんの切れ端だった。
「……淀み、よね。あれ」
「ああ。だが、小さい。迷宮のあれの、何百分の一だ」
「こんな、迷宮でもない普通の岩場に、なんで……」
ヴィクは、無言で池の縁に膝をつき、篭手の手甲を外した。細い指先を、靄の表面にかざす。触れる寸前で止めて、目を閉じる。何かを、読んでいるように見えた。
「「「「…………」」」」
俺たちは、黙って待った。俺たちのパーティにしては、奇跡的な沈黙だった(ひなたの腹の音を除く)。
やがて、ヴィクは目を開けた。
「……浅い。まだ、できたばかりの淀みだ。放っておけば、何年かかけて育って、いつか、あの迷宮の底みたいになる」
「なる、って。……止められるのか?」
「このくらいなら。下がってろ」
ヴィクは、立ち上がると、両手を靄の池にかざした。そして、歌うような、低い声で、何かを唱え始めた。
聞いたことのない言葉だった。詠唱とも、歌ともつかない。だが、不思議と、耳に馴染む響きがした。……あの遊び歌に、少しだけ、似ている気がした。
靄の渦が、ゆっくりと、逆に回り始めた。
油膜みたいな表面が薄れ、黒が灰色に、灰色が透明に。数分後、岩の窪みには、ただの澄んだ水たまりだけが、残っていた。
「「「「おお……」」」」
「すごい!!何それ!!浄化魔法!?」
「……“おまじない”だ。僕の故郷の。……それ以上は、聞くな」
ヴィクの顔は、フードの奥で、少し青ざめていた。膝が、わずかに震えている。今のが、安くない術だったことくらいは、俺にも分かった。
「おつかれ。ほい」
俺は、弁当袋から芋を一個(ひなたの許可制)取り出して、放った。ヴィクは反射的に受け取り、いつもの調子で「べ、別に腹は」まで言いかけて、諦めて齧った。腹の音が、返事より先だったからである。
「……で、だ。あとは“おいしそうなの”の正体だが」
「ん。あれ」
ひなたが指差したのは、水たまりになった窪みの、すぐ横の岩棚だった。
そこに、ちんまりと、光る茸の群生があった。
傘が半透明で、月光を固めたみたいに、ほんのりと光っている。数は、十ほど。
「なにこれ……綺麗……」
沙耶の目の焦点が、ふっと溶けた。
「“月茸”。極上の食材にして、一級の薬材。清浄な魔素の濃い場所にしか生えない、幻の茸。市場価格、ひと株で銀貨2枚」
「「「「銀貨2枚!?」」」」
「十株で銀貨20枚!!金貨2枚!!風呂の残金が一気に返ってくるわよ!!」
「待て待て待て、話を整理するぞ」
俺は、指を折った。
「清浄な魔素にしか生えない茸が、淀みのすぐ横に生えてた。……変だろ、それ」
「……たぶん、順番が逆なんだ」
ヴィクが、芋を齧りながら言った。
「元々ここは、清浄な魔素の湧く、いい場所だった。だから月茸が生えた。……そこに、淀みが染み出してきた。土竜獣は、それでも茸のそばを離れなかった。あいつにとっても“宝物”だったんだろ。……瘦せてたのは、淀みの横で、ずっと我慢してたからだ」
「「「「…………」」」」
穴の外で伸びている、あの毛のない巨体を、俺たちは思い浮かべた。腹を空かせて、それでも宝物の横で、まずい空気を我慢して、見張り続けていた大食らい。
「……なあ。茸、全部は採るのやめないか」
言い出したのは、意外にも、隼人だった。
「金の亡者のあんたが!?」
「うるせえな。……ほら、あれだよ。株を残しときゃ、また生える。また生えりゃ、また採れる。長期投資ってやつだよ」
「照れ隠しの理屈まで金の話なのが、あんたらしいわ」
結論。月茸は三株だけ採り、残りは土竜獣に残すことになった。ひなたが、弁当の残りの芋を(自分の分から)二個、岩棚の下にお供えした。
「めざめたら、たべて。……よいものを、まもってて、えらかった」
——帰り道。洞窟を出ると、土竜獣はまだ、腹を出して伸びていた。
そして、丘を下り始めた、その時である。
先頭の隼人が、ぴたり、と足を止めた。
「……なあ、お前ら」
振り返った顔は、満面の笑みだった。
嫌な予感しか、しなかった。
「俺、今——めちゃくちゃ調子いい」
「「「逃げろォ!!」」」
問答無用だった。俺と沙耶とひなたは、荷物を抱えて全力で走り出した。ヴィクだけが、状況が読めずに立ち尽くしている。
「え!?な、なんで逃げるんだ!?あいつが調子いいなら、心強いんじゃ」
「逆だ馬鹿!!あいつの体調は“この場の危険度計”!!あいつが絶好調ってことは、今この瞬間、ここが超危険地帯だってことなんだ!!」
「なッ」
「ヴィクも走れ!!巻き込まれるぞ!!」
直後、俺たちが立っていた丘の斜面が、ずずん、と縦に揺れた。
地面が、盛り上がる。土砂を撥ね上げて現れたのは、さっきの土竜獣、の、倍はある巨体だった。毛のない灰色の背中に、古い傷。シャベルの爪は、岩ではなく鉄の色。
「でかいのがもう一匹いた!?なんで!?」
「親だ!!さっきのが“子”で、こっちが“親”!!子供の気絶の匂いで、親が出てきたんだ!!」
「習性が完全に熊なのよ!!」
「隼人!!出番だ」
振り向いた先で、俺たちのエースは、もう跳んでいた。
「おう。任せろ」
親土竜獣の鉄色の爪と、隼人の剣が、正面から噛み合った。火花。土煙。押し合いは一瞬、隼人が半歩滑り込んで、擦れ違いざまに三閃。巨体がよろめく。
「見たか我が眷属!!あれが本調子のうちのエース!!」
「ミミズから逃げてた奴と、同一人物なのか、あれが……」
「毛が生えてる敵なら大陸最強なんだ!!」
「あいつ毛がないけどな!!」
「細かいこと言うな!!」
親土竜獣は強かった。だが、隼人は止まらなかった。危険度が高いほど輝く男が、笑いながら爪を捌き、俺の看破が死角を叫び、沙耶の采配が退路を確保し、ひなたの黒パンが長い鼻先を的確に撃つ。
最後は、気絶から目覚めた子土竜獣が、のそのそと現れて、親の脚に、ちん、と鼻先をつけた。
親は、動きを止めた。子の無事を確かめるように長い鼻を絡ませ、それから、俺たちを白く濁った目で一瞥し、子を連れて、ゆっくりと丘の向こうへ消えていった。
「「「「…………」」」」
「……終わった、の?」
「終わった、っぽいな。……あっちも、子供が無事なら用はないらしい」
「ん。おやこ、なかよし」
ひなたが、満足そうに頷いた。お供えの芋は、ちゃんと子供の口に入ったらしい。
——村への帰り道、夕日の丘で、沙耶が帳面を広げた。
「本日の収支。月茸三株、売却見込み銀貨6枚。淀み(小)の浄化、一件。土竜獣の親子との遭遇戦、勝ち……というか、引き分け?で、報告書に書けない項目が、ひとつ」
全員の目が、ヴィクに向いた。正確には、ヴィクの“おまじない”に。
「……書くな、とは言わない。でも、書けば、僕のことをいろいろ聞かれるぞ。ギルドに」
「じゃ、こう書くわ。“淀みは自然消滅を確認”。……嘘は書いてない。消滅は、したもの」
「経理の帳簿、たまに正義より賢いのよね」
ヴィクは、フードの奥で、ふ、と息を吐いた。それが笑ったのだと分かるくらいには、俺たちはこいつの付き合い方を覚え始めていた。
——迷宮の外の、小さな淀み。
その意味を、この時の俺たちは、まだ深く考えていなかった。考えるべきだったのかもしれない。だが、夕日は綺麗で、芋は重くて、月茸は銀貨6枚だった。
人生には、そういう日もある。




