第23話 発射許可はまだ出ない
“あと二日”の警告から、一日半後。
それは、夜明け前に始まった。
ごう、と。地の底から、風の吹く音がした。
迷宮の入り口——西の丘の“穴”から、淡く光る魔素が、霧のように噴き出したのである。
「総員、配置ィィ!!」
グスタフさんの号令が、朝靄を裂いた。
情報が半日早かったおかげで、防衛線は出来上がっていた。入り口前の広場を扇状に囲む、三重の陣。最前列に盾持ちと《暁の誓約》の“壁”。二列目に武器持ち。三列目に魔法使いと治癒師。住民の避難は、昨夜のうちに済んでいる。
そして俺たち《腐れ縁》は、遊撃——通称“風”として、陣の外側に立っていた。
「来るぞ!第一波ァ!!」
穴から、溢れた。
スライム、コボルト、ゴブリン。弱い魔物の奔流が、崩れた堤防の水みたいに、広場へ流れ込んでくる。
「戦端、開けェ!!」
暁の壁が、正面から受け止めた。型は、完璧だった。盾が受け、槍が突き、シリルさんの剣が要を締める。ミアさんの支援が隊列を包み、こぼれた魔物は二列目が仕留める。
「よし、俺たちも仕事するぞ!——沙耶ァ!足が遅い!朝飯の白パン、どこに入れた!!」
「あんたの供物趣味に言われたくないわよ!!この変態紳士!!」
「その罵倒、新作か!悪くない!!」
「なあ知ってるか沙耶!氾濫ってのはな、古の言葉で“世界の腹が減る”と書くんだ!!」
「絶対書かないでしょ!!走りながら嘘の語源を作るな!!」
「だが今のうちの大砲は空腹だ!つまり——世界と対等!!」
「理屈が破綻してるのに勢いで納得しそうになるのが一番腹立つのよ!!」
罵倒が飛ぶたび、俺たち四人の足は羽根になっていく。スキルの光は契約者にしか乗らないが、景気のいい怒鳴り合いは伝染するらしく、周囲の冒険者たちの威勢まで妙に上がっていた。壁の外側を回りながら、俺は視界の全部を加護に流し込んだ。
——群れの密度、東寄り。負傷者、二列目に一人。オークの混入、三。回り込み、左の岩場から五。
「左の岩場、コボルト五!隼人!」
「あいよっ!」
岩場に走った隼人は、五匹を三呼吸で捌いた。振り向いた顔が、輝いている。
「なあ圭吾ォ!俺、今日、人生で一番調子いい!!」
「知ってた!!それが一番怖い報せなんだよ!!」
隼人の体調は、この場の危険度計である。俺たちのエースが絶好調ということは、つまり、今日という日が絶体絶命ということだった。
「二列目の負傷者、下げろ!治癒師さん、右から三人目!」
最前線では、ヘクトルさんが吠えていた。
「陣を乱すなァ!!拾い損ねは俺が拾う!!」
「教官!右、抜けました!三匹!」
「見えている!!」
一閃、二閃。狼の耳が揺れる間に、三匹が魔石になった。柵の向こうの野次馬——もとい、避難を拒否して残った常連の冒険者たちから、歓声が上がる。
「ヘクトル教官、いい動きだ!おい、賭けはどうなってる!」
「“防衛成功”が1.1倍!渋いぞ!」
「こんな時まで賭けるな!!帰れ!!」
ドワーフたちは、氾濫の朝も通常運転だった。この街の連中の、こういうところは、嫌いになれない。
宣言通り、壁を抜けた魔物は、ことごとく狼の教官の剣に沈んだ。非番の日に射的で五発五中の男は、本番では手すら見えなかった。
後方では、リタさんが治癒師と物資の間を駆け回り、その横で見覚えのある犬耳の青年が、荷を担いで走っていた。大食い大会の、あの彼である。
「ひなたさん!!補給、持ってきました!!干し肉と、パンと、その、俺の気持ち——」
「ん。にく、もらう」
「気持ちは流された!!」
恋の行方はさておき、補給線は完璧だった。
“風”の仕事は、順調だった。第一波は、押し返せる。誰もが、そう思い始めた頃——
俺の加護が、それを拾った。
——穴の奥。深い。深いところから、“圧”が来る。
「————全員、聞け!!」
俺は、声の限りに叫んだ。
「本波が来る!!今までのは、前座だ!!深いところから、桁違いのやつが上がってくる!!」
広場が、ざわりと揺れた。グスタフさんが即座に応じる。
「聞いたな!!陣を締め直せ!!第二防衛線、前へ!!」
「沙耶!残高と、発射条件の確認!」
「銀貨13枚と銅貨10枚!発射予算、確保済み!屋外、遮蔽なし、条件は揃ってる——でも!」
沙耶は、帳面をぐっと握りしめて、叫んだ。
「まだよ!!本波の“中心”が見えるまで、撃たせない!!私たちの全財産よ、あれは!!」
「経理がこの状況で財布の心配してるの、逆に頼もしいわね!!」
「ひなた!弾込め——じゃなくて、腹の具合はどうだ!」
「ん。……あさごはん、ぬいてきた」
「完璧だ」
「ちなみに沙耶。撃った後の“お会計”は」
「氾濫討伐の特別報酬が出るって、グスタフさんの言質は取ってあるわ。……それでも足りなかったら」
「足りなかったら?」
「————考えたくない」
「経理が目を逸らした!?」
「大丈夫。……たぶん、大丈夫よ」
「二回言うやつ、大丈夫じゃないのよなあ」
俺たちの大砲は、空腹であるほどよく飛ぶ。ひなたは、静かに広場の中央寄りへ進み出て、穴を見据えた。とろんとした目が、ほんの少しだけ、細くなっている。
ごう——と、穴の風が強くなった。
魔素の霧が、渦を巻く。地面が、断続的に揺れ始める。何かが、上がってくる。大きくて、重くて、たくさんの、何かが。
「来ます!!総員、衝撃に備え——」
ヘクトルさんの声が、途中で止まった。
穴から、飛び出してきたのは——魔物では、なかった。
小柄な、フードの影だった。
ぼろぼろのマント。裂けたフード。足をもつれさせ、転がるように穴から走り出てくる。その背後から、オークの群れが雪崩れて追ってくる。
「————あいつ!!」
あの生意気な声が、頭を過ぎる。逃げる準備をしろと言った声。供物のパンに、必死で齧りついた横顔。甘いのがいい、と笑った気配。
——あいつは、警告だけして、自分は戻ったのだ。あの穴の底へ。一人で。
考えるより先に、体が動いていた。俺は陣を飛び出し、全力で走った。背後で沙耶の「ちょっと!?」が聞こえたが、知らん。あれは、俺たちの夜の同胞だ。
「隼人ォ!!」
「分かってるよ、もう!!」
隼人が並走し、追いすがるオークの先頭を斬り飛ばす。俺は滑り込んで、倒れかけた小柄な体を、正面から受け止めた。
軽い。そして、ぼろぼろだった。マントは裂け、擦り傷だらけで、息も絶え絶えで。
「おい!しっかりしろ!!」
腕の中で、フードが、はらりと落ちた。
紫の髪が、零れた。
初めて見る素顔は——予想よりずっと幼くて、汗と泥にまみれて、それでも気の強そうな目だけが、俺を睨みつけていた。
「……お、前……じろじろ、見るな……」
「見る!今は見る!怪我の確認だ!——おい、治癒師!!」
「下は……もう、駄目だ……」
細い手が、俺の風呂敷マントを、掴んだ。
「“主”が……最下層の主が、淀みに呑まれて——変質してる。あんなの、もう、ただの氾濫じゃ……」
言葉が、途切れた。腕の中の体から、力が抜ける。
「おい!?おい、しっかりしろ!!」
意識を手放す寸前——あいつの唇が、最後に、小さく動いた。
「……たす、けて」
生意気な声じゃなかった。作った少年の声でもなかった。
作り物じゃない、素の——女の子の声だった。
——ごう、と。
穴の風が、これまでで一番強く、吹き上がった。
地の底から、咆哮が聞こえた。
腹の底を殴るような、低い、長い咆哮だった。広場の全員が、武器を握り直す音がした。
「圭吾!その子を後方へ!治癒師のところだ!!」
グスタフさんの声に、俺は腕の中の軽すぎる体を抱え直した。
「——寝てろ、夜の同胞。……起きたら、甘いのを食わせてやる」
返事は、なかった。
ただ、気を失ったその手は、俺の風呂敷マントを、まだ小さく掴んでいた。




