第19話 北の話はお静かに
その晩、ギルドの酒場に、吟遊詩人が来た。
流れの詩人が街に立ち寄ると、酒場は演奏会になる。今夜の客は、竪琴を抱えた初老の男だった。旅の歌、英雄の歌、恋の歌——一曲ごとに銅貨が飛び、エールが空く。
まず、俺がリクエストを出して、丁重に却下された。
「詩人よ。“深淵”をテーマにした曲は、あるか」
「ないですねえ」
「では“封印されし右腕”の——」
「ないですねえ」
「取り扱いがないだと……!?大陸の音楽業界は何をやっている!?」
「需要と供給ですねえ」
詩人は大人だった。
代わりに酒場が沸いたのは、英雄の歌だった。百年前の剣聖がドラゴンを討つ、勇壮な物語詩。手拍子が、床板を鳴らした。
「いいなあ、英雄譚。……なあ、俺たちの歌って、いつか出来ると思う?」
「出来るとしたら、どんな歌になるのよ。“罵り合えば力が湧くよ”?」
「“パンを投げれば猪が転ぶ”」
「“はらぺこ娘が森を消す”」
「……童謡だな、それは。英雄譚ですらない」
「事実の羅列なんだけどねえ」
そして、夜も更けた頃。誰かが、リクエストを叫んだ。
「おやっさん!“北の歌”をやってくれ!」
酒場が、少しだけ静かになった。北の歌。つまり、魔族の歌である。
詩人は苦笑して、竪琴を構え直した。
「……いいでしょう。ただし、古い歌ですよ」
低い旋律が、始まった。
——曰く。北の果て、山脈の向こうには、角持つ民の国がある。
——彼らは魔の力に長け、長い齢を生き、かつて人と、大きな戦をした。
——そして戦は誰も勝たぬまま終わり、以来、北の山を越える者はない。
「……なあ、リタさん」
演奏の合間に、俺は近くで洗い物をしていたリタさんを捕まえた。
「魔族って、実在するんですよね」
「しますよ。会ったことのある人は、ほとんどいませんけど」
リタさんは、グラスを拭きながら、声を少し落とした。
「北の魔領に住んでいて、角があって、魔力がすごく強い長命の種族——というのが、教わる知識ですね。大昔に大戦があって、今は休戦中。国交はなし。それだけ聞くと怖い話ですけど……」
「けど?」
「ギルドの記録だと、ここ何十年、魔族との衝突なんて数えるほどなんです。むしろ“魔族を見た”って報告のほとんどが、見間違い。……なのに、皆さん、怖がるんですよねえ」
「見たことがないから、怖い、と」
「そういうものですよ」
近くの席で聞いていたシリルさんが、静かにグラスを置いた。今夜は暁の面々も、隅の席で杯を傾けていたのである。
「……僕は、会って話してみたいですけどね。魔族の方と」
「シリルさん?」
「騎士の家の教えなんです。“剣を抜くのは、相手の言葉を全部聞いてから”。会ったこともない相手に剣を向けるのは、その、順番が違うので」
「眩しっ」
「正論が眩しいわ……」
ミアさんがにこにこと頷き、斥候のニナと大盾のボルグも、静かに杯を掲げた。この一団、酒場でも正しかった。
——なるほど。この世界の魔族観が、だいたい分かった。
角。魔力。長命。北の魔領。大戦と休戦。そして——実際に会った者は、ほとんどいない。
「フ……フフ……」
「あ。圭吾が変なスイッチ入った」
「聞いたか、お前ら。角持つ魔の民、閉ざされた北の国……!会ってみたいと思わないか?俺は思う!大いに思う!!」
「出た出た」
「だってそうだろう!大戦の真実、閉ざされた国、そして角だぞ、角!浪漫の塊だろう!!」
俺の熱弁に、しかし、周りの席から苦い声が飛んだ。
「兄ちゃん、よしなよ。魔族に会いたいなんて」
酔った中年の冒険者だった。悪意というより、本気の忠告の顔をしていた。
「魔族ってのはな、おっかねえんだよ。俺の祖父さんの代には、北の村がひとつ、一晩で消えたって話だ」
凄まれて、俺の背筋は素直に縮んだ。
「ヒッ……す、すみません……」
「びびるなら言うなよ!?」
だが。びびりながらも、聞くべきことは聞く。それが紳士である。俺は涙目のまま、口を開いた。
「それ、本当に魔族の仕業だったんです?」
「知らねえよ。だけど、みんなそう言ってる」
「…………」
みんなそう言ってる。それが、この世界の“常識”の作られ方らしかった。
俺たちは、顔を見合わせた。俺たち四人は、この世界の生まれではない。だから、この染み付いた怖さを、共有していない。角と聞いても、魔力と聞いても、「へえ、すごいな」としか思えないのだ。
「……ま、会ったこともない相手を怖がるのは、損な性分だよな」
「隼人にしては、まともなこと言うじゃない」
「会ったことねえやつの悪口で盛り上がっても、一銭にもならねえし」
「基準はそこなのね」
「ん。——おいしいものを、いっぱい持ってる人かもしれないし」
「ひなたの基準もぶれないな」
「というかだな、お前ら。よく考えてみろ」
俺は、エールのジョッキを掲げて、声を落とした。
「“角があって、魔力が強くて、長命”。……この情報だけで怖がれというのが、そもそも無理な話だ。俺に言わせれば、それは——」
「それは?」
「“かっこいい”の三要素だが?」
「出た。あんたの基準」
「いやいや、聞け。角だぞ?生えてるんだぞ、頭から?魔力は強く、齢は千年。おまけに閉ざされた北の国ときた。……これで胸が躍らん奴は、少年の心を落とした場所に戻って拾ってこい」
「あんたの少年の心は暴走機関車なのよ」
「ま、圭吾の言い方はともかく——怖がる前に会ってみたい、ってのは、俺も分かるけどな」
「隼人まで。……はあ。私たちの男子はこれだから」
沙耶はそう言って呆れたが、その口元が少し笑っていたのを、俺の観察眼は見逃していない。
——演奏が終わり、客がまばらになった頃。
カウンターで、グスタフさんが一人で飲んでいた。俺は、なんとなく隣に座った。
「支部長。さっきの歌、聞いてました?」
「ん?ああ。……北の歌か」
グスタフさんは、ジョッキを傾けて、少し遠い目をした。
「若い頃、王都の遠征で、山脈の麓まで行ったことがある。……国境の岩山に、でかい石碑が立っててな。人の文字と、見たこともない文字で、同じ文が彫ってあった」
「なんて?」
「“これより先、互いに踏み越えぬこと”。——それだけだ。署名も、国の印もない。ただ、双方の文字で、同じ約束だけが彫ってある」
「……へえ」
「妙な話だろ。憎み合って別れた奴らが、律儀に同じ石碑を彫るか?……俺はあれを見てから、魔族ってのが、よく分からなくなった」
グスタフさんは、それきり歌の話をやめて、明日の調査隊の段取りの話を始めた。
——宿への帰り道。
夜の路地を歩きながら、俺は、北の空を見上げた。山脈は闇に溶けて見えないが、あの向こうに、角持つ民の国がある。
「なあ、圭吾。ほんとに行きたいのか、魔領」
「ああ。いつか、な」
「怖くないの?」
「怖い、の中身によるな。——“みんながそう言ってる”は、俺の中では理由にならん」
「……ふうん。ま、あんたのそういうとこは、嫌いじゃないわよ」
「三百三十六件目、素直か?」
「数えるな!!今のは違うでしょ!!」
笑い合って、角を曲がった——その時。
路地の先の屋根の上を、小柄な影が、音もなく駆け抜けていった。
フードの端から、一瞬、紫。
「……また、あいつだ」
影は屋根の稜線で一度止まり、月を背に、こちらを見下ろした——気がした。距離があって、表情は見えない。ただ、フードの奥の視線が、確かに俺たちの上を通った。
「知り合い?」
「知り合い……になりかけの、何かだ」
「何よそれ」
俺が手を挙げかけた時には、影はもう、次の屋根へ跳んでいた。夜の街に、軽い足音だけが残った。
北の歌の夜に、北から来た(かもしれない)誰かが、屋根の上を走っていく。
世界の底が、ざわざわしている。行商のおっちゃんの言葉が、また、頭の隅で鳴った。
——翌朝。ギルドから、招集が来た。
『フォルテ迷宮・調査協力の要請。《腐れ縁》は明朝より、一層・二層の予備調査を担当のこと』
「危険度・中の調査、再びってわけね。……ま、今度は下見済みよ」
「ん。おべんとう、つくる」
「遠足じゃないんだよなあ」
いよいよ、迷宮である。




