第171話 素還りの、口伝
戦支度の第一課は、沙耶の特訓だった。
教官は、ばあや。教場は、機の間。教材は、百年途絶えていた、素還りの口伝である。
教官の休息を、これ以上削るわけにはいかない。稽古の刻限は、食事と記録の当番に、そのまま重ねた。ばあやは糸を織り、こちらは飯を運び、記録を取り、掃除をし————その合間に、口伝が、降ってくる。
「里長の写しは、読みました。『素還りは、恥にあらず。晒すは、信ずるの、いちばん深きかたち』……あれの、続きが、あるんですね?」
「ございますとも。写しに残せるのは、入り口だけ。ここからは、口伝にて」
ばあやは、糸を織りながら、歌うように、伝え始めた。
「素還りの極意は、三段。一段目。“恥を、認める”。あなたはもう、できておられる。眼鏡を外して、素で吠える。あれが一段目」
「は、恥って言われると、改めて恥ずかしいんですけど……」
「二段目。“恥を、好きになる”」
「す、好きに!?」
「素の自分を、恥と思ううちは、力は瞬間で終わりまする。……眼鏡を外したあなたは、うるさくて、口が悪くて、意地っ張りで————それが、どうなさった。それが、あなたの、いちばん力の出る形。なら、それは恥ではなく————型、でございましょう」
「型……」
「三段目は、まだ早い。二段目ができたら、教えまする」
特訓は、実践に移った。方法は、単純明快————「眼鏡を外して、日常を過ごす」である。
「え、ええと、それじゃ、今日の帳簿を……ああもう!!字が雑になる!!眼鏡ないと集中できな————くない。あら。……あらら?」
「ほう。書けてるじゃないか、経理」
「書けてる、けど!!なんか、字が、のびのびして……や、やだ、この字、私の素の字だわ!!小学生の時の!!」
「いい字だ。読みやすい」
「褒めないで!!恥ずかし————く、ない。恥ずかしくない。これは、型。私の、型……」
沙耶は、ぶつぶつ言いながら、眼鏡なしの帳簿を、一冊、書き上げた。書き上げた頃には、耳の赤みが、だいぶ、引いていた。
「(……変わってきたわね、あの子)」
「(ん。すがおの、じかんが、のびてる)」
なお、特訓の途中、種目に「素の挨拶」が追加された。
「はい、ではお客様が来た想定で。眼鏡なしで、受付の挨拶をなされ」
「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用けん————ああもう回りくどい!!で、何の用!!」
「素が営業を貫通しましたな」
「ほっほ。良い喧嘩腰。二段目が、近うございますよ」
「褒められてるのに複雑!!」
「ついでに言うと、素の方が、値切りが三割強い。道中の実測値である」
「実測するな!!」
——夕方には、見学者が増えた。
『……私にも、それ、できるかしら』
ヴェイルである。
『五年間、気を張り続けて。……そろそろ、素の出し方を、忘れた気がするの』
「奇遇ですね、姉君。実は俺も、素というものが、よく分からん男でして」
「あんたは逆よ。素を出しっぱなしで、締め方を忘れたの」
「手厳しい!!」
「ん。しつもん。あたしの、“す”は、どこ?」
ひなたが、首を傾げた。ばあやは、糸を繰りながら、笑った。
「あなたには、ございませぬな。あなたは、ずっと、素のままじゃ。隠しごとの匂いが、ひとつもせぬ」
「ん。……つまり?」
「あなたが、素還りの、完成形ということです」
「「「「(師範代だった)」」」」
兵站長は、こくりと頷いて、それから当たり前の顔で、ばあやの焼き餅の皿に、おかわりを足した。師範代の仕事は、今日も兵站である。
『ちなみに、ヴィクの素はね————』
「姉さん!?その流れで私の話をするな!!」
『甘えん坊よ。六歳まで、ばあやの膝が定位置』
「ばあや!?笑うな!!」
「ほっほっほ」
素の情報は、本人の抵抗も虚しく、車座に共有された。
「時に、ばあやさん。三段目とは、何なんです」
「言えませぬな。……ただ、ひとつだけ。三段目は、素を“晒す”のではなく————素で、誰かを“守る”段でございますよ」
「「「「…………」」」」
ばあやが、糸の向こうで、ほっほ、と笑った。
「では、皆さまに、婆から、宿題をひとつ。“自分の、いちばん見せたくないところ”を、ひとつ、思い浮かべなされ。言わなくてよい。思い浮かべるだけ。……それが、あなたがたの、次の力の在り処です」
「「「「「…………」」」」」
車座が、静かになった。全員が、それぞれの「見せたくないところ」を、胸の中で、覗き込んでいた。
俺も、覗き込んだ。
覗き込んで、見つけてしまったものについては、まだ、書かない。
観測日誌、本日の特記(沙耶の、のびのびした字で)。
『素還り特訓、開始。一段目、済。二段目、進行中。……追記。ばあやの宿題、全員、変な顔で黙り込んだ。この隊にも、まだ、底があるらしい』




