第166話 ヴィクトリア
その日の夕飯は、静かに、うまかった。
ひなたの鍋は、いつもより一段、丁寧に出汁が引かれ(本人は「ふつう」と言い張った)、誰もが、いつもより少しだけ、ゆっくり食った。大事な話の日の飯は、うまくないといけない。俺たちの全員が、暗黙で、それを分かっていた。
膳が下げられ、茶が回った。
頂の間。見張り椅子の父君と、大灯の青白い光と、十一人の輪。地下のばあやには、糸越しに、沙耶が実況を送っている。
ヴィクが、立ち上がった。
「聞いてほしい。今夜は、私の、二度目の話だ」
誰も、茶化さなかった。輪の全員が、姿勢を、少しだけ正した。
なお、立ち上がる直前、ひなたが、ヴィクの手に、こっそり飴をひとつ、握らせていた。
「(ん。こえが、ふるえない、あめ)」
「(……そんな効能、あるのか)」
「(ある。いま、きいた)」
効能は、あった。らしい。
「一度目は、空の里の囲炉裏だった。あの時、私は“魔族だ”とだけ言った。家のことは、誤魔化した。……お前たちは、詮索しなかった。“一度あることは、二度ある”と言って、待ってくれた。今夜が、その、二度目だ」
ヴィクは、深呼吸を、ひとつ。
それから、まっすぐに、言った。
「私の、本当の名前は————ヴィクトリア」
大灯の炎が、ゆら、と揺れた。
「夜の民の、長の家系————代々“魔王”と呼ばれてきた家の、末の娘。そこの見張り椅子の御仁————前の代の魔王が、私の、父さんだ」
「「「「…………」」」」
「五年前、父さんの様子がおかしくなり始めた頃、私は南へ出された。“探し物”の名目で。……本当の探し物は、最初から、父さんを元に戻す手がかりだった。絆の力のこと。測定不能の噂。心の底の力。全部、そのためだった」
言葉は、止まらなかった。堰が、切れたように。
「フォルテに行ったのも、お前たちを監視したのも、最初は全部、そのためだった。利用する気だった。……途中から、違くなった。途中から————帰る場所が、二つに増えた。それで、ずっと、言えなくなった。魔王の娘だと知ったら、お前たちが————」
「ヴィク」
俺は、手を挙げて、話を止めた。
「言い直しを要求する。今のうちの空気を見て、その先を言えるなら、言ってみろ」
ヴィクは、輪を、見回した。
沙耶は、帳面を開いて、「家名の欄、書き足すから、綴りを教えて」の顔で待っていた。隼人は、茶をすすりながら「で?」の顔だった。ひなたは、ヴィクの席に、もう、食後の飴を置いていた。姉御たちは、にやにやしていた。
「…………ふ。ふふ。だよな。お前たち、そういう連中だった」
「そういう連中である。改めて、名乗られよ。今度は、途中で止めん」
ヴィクは————ヴィクトリアは、背筋を伸ばした。
夜色の勝負服。黒曜石の角。金の瞳。魔王の娘は、生意気な顔で、堂々と、名乗った。
「ヴィクトリア。夜の民の長の家系、末の娘。そして、フォルテの家の五人目で、パーティ《腐れ縁》の、悪口一年生だ。……以後、変わらず、よろしく頼む」
「「「「よろしく!!」」」」
返事は、一秒で、揃った。
そこからは、いつもの円卓だった。
「綴りは?家名は別にあるの?書類はどう直せばいいの?」
「か、家名は————長いから、また今度な。書類は“ヴィク”のままでいい」
「ヴィクトリア。……ふ。良い名だ。言わせてもらうが、“ヴ”で始まる名は、強い。漆黒の語感学において、最上位の頭文字である」
「何の学問だ」
「ゔぃ・く・と・り・あ。ごはく。よぶには、ながい」
「呼び名の話は、あとで会議だな」
「魔王の娘、ねえ。要するに、実家が大陸最強ってことだろ?……婿入りの難易度、とんでもねえな」
「「誰の話をしてるのよ(んだ)!!」」
経理と本人の声が、綺麗に揃った。揃ってから、二人とも、揃ったことに狼狽していた。
『……あっけないわね、ほんとうに』
ヴェイルが、呆れと安堵の混ざった声で、笑った。
『五年抱えた秘密が、三分で、ただの自己紹介になったわ』
「それが俺たちの、荷降ろしの流儀です、姉君」
『それとね、ヴィク。……おめでとう。名前、ちゃんと、贈り物になったわ』
「……ん。姉さんの、言った通りだった」
姉妹は、大灯の光越しに、少しだけ、目元を赤くした。
「ところで諸君。本日をもって、当家の名簿を更新する。読み上げよう。“五人目: ヴィクトリア。通称ヴィク。役職: 監視長、講師、共同観測者。特技: 音読と、悪口(一年生)”」
「悪口の欄は、要らないだろ!!」
「経歴詐称は、我が家の名簿が許さん」
その夜の特記を、記録しておく。
名乗りの間、父君の特記は、ずっと、透け続けていた。まばたき三回分。過去最長。
読めたのは、こうである。
抵抗中。“ 名乗った ”。“ ヴィクトリアが、名乗った ”。“ ————よく、言えたな ”。
観測日誌、本日の特記。ヴィクトリアの字で、いつもより、大きく。
『二度目、完了。名前は、贈り物になった。父さん、聞いてたな。知ってるぞ』




