第164話 灯の歌
その夜は、療養十日目の、節目の夜だった。
夕飯のあと、頂の間に、俺たちの面々と、ヴェイルが残った。窓の外は、よく晴れた星空。大灯の青白い光が、部屋を静かに満たしている。
実は、この日の昼、塔は、ひとつの秘密を全員で共有していた。
ヴィクが、階段の百二十段目あたりで、こっそり歌の練習をしていたのである。本人は、誰にも聞こえていないつもりだった。だが、この塔の螺旋階段は、匂いの煙突であると同時に、音の、煙突だった。
「(……きこえてる)」
「(ん。ぜんぶ、きこえてる)」
「(音程を三回、直したわね)」
「(いい声してんだよなあ、あいつ)」
一階の台所で、俺たちは、鍋の火を細めて、全員で盗み聴いていた。練習は、三巡で終わった。最後の一巡は、直すところが、もう、なかった。
ちなみに、この煙突は、上にも、下にも通じている。
『(……聞こえてるわよ。私にも)』
「(姉君!!)」
『(あの子、昔から、練習だけは隠れてやるの。……知らないふり、私も混ぜて)』
そして、階段の底からも、糸越しに、ひとこと。
『(婆も、聞いております。……上手に、なられましたな)』
塔の全員が、共犯だった。
「(……なあ。夜、知らないふりできるか、お前ら)」
「(で、できるわよ。たぶん)」
(全員、できた。奇跡である)
「……今夜、歌おうと思う」
ヴィクが、言った。
「灯の歌を。あの御家の、揺り籠の歌を。里で歌った時、父さんに聞かせたいって、ずっと思ってた」
『……いいの?あの歌は、その』
「知ってる。あれは————母さんの、歌だった」
初めて出る言葉だった。母、という言葉が。
「ばあやから聞いた。灯の歌は、母さんが、私たちを寝かしつける時の歌で、母さんが居なくなってからは、ばあやが、代わりに歌ってくれてたって。……私は、母さんの顔を、覚えてない。歌だけ、覚えてる」
『…………ええ。母さんの歌よ。父さんが————一番、好きだった歌』
ヴェイルは、静かに、頷いた。頷いて、妹の知らない話を、少しだけ、した。
『母さんはね。歌が下手だったのよ、実は。音程が、よく迷子になるの。でも、父さんは毎晩、椅子を寄せて聴いてた。世界一の演奏会みたいな顔で。……だからね、ヴィク。うまく歌おうとしなくて、いいわ。あの人は、歌のうまさを聴く人じゃないから』
「……ん。分かった」
『歌って。……私は、たぶん、途中から声にならないから。妹に、任せるわ』
ヴィクは、父の見張り椅子の傍らに、立った。
深呼吸を、ひとつ。それから、歌い始めた。
低い、静かな、北方古語の子守唄。里の焚き火で聴いたあの節が、頂の間の石壁に、柔らかく反響する。俺たちは、床に座って、ただ、聴いた。
一番が、終わる。
二番の途中で、ヴェイルの声が、小さく、重なった。声にならないと言った姉の声が、震えながら、妹の歌を支えていた。
そして、三番。
俺の眼は、見逃さなかった。
大灯の炎が、揺れ始めた。
蝋燭のように。風に吹かれたように。青白い炎が、歌の拍に合わせて、ゆら、ゆら、と。
「(灯が————)」
「(ああ。歌ってるんだ、あの灯も)」
特記が、透けた。今夜のは、長かった。まばたき一回分、たっぷりと。
抵抗中。“ この歌は ”。“ この歌は、だめだ ”。“ 堪えて ”
————堪えて。
俺は、手を、上げた。
「今夜は、ここまでだ」
ヴィクの声が、止まった。止まって、こちらを見た。
「届いてる。充分だ。……終いの節を、置け」
ヴィクは、何も聞き返さなかった。聞き返さずに、歌の終いの一節だけを、静かに、置いた。
余韻が、石壁から、ゆっくりと引いていく。大灯の揺れも、少しずつ、収まっていく。
そして。
見張り椅子の上で。
父君の、目尻から————
一筋、光るものが、伝った。
「「「「「————」」」」」
誰も、声を、出せなかった。
表情は、変わらない。視線も、北の空のまま。呼吸も、静かなまま。ただ、涙だけが、一筋、五十年分の顔の上を、ゆっくりと流れていった。
ヴィクは、父の頬のそれを、指先で、そっと、拭った。
「……泣くなよ、父さん」
自分も、ぐしゃぐしゃの顔で。
「泣くなら————起きて、泣け。こっちで。私たちの、居る方で」
返事は、なかった。
なかったが、その夜の特記の透けは、消える寸前、確かに、こう読めた。
“ もう少し ”。
——その夜、俺たちは、階段の下り口に集まった。
「地下へ、報告する。今夜のを、全部だ」
沙耶が、読み上げた。歌のこと。“この歌は、だめだ”。“堪えて”。涙。そして、最後の“もう少し”。
糸越しの声は、しばらく、返ってこなかった。
『……“もう少し”は、二通りに読めまする』
「ええ」
『もう少しで、起きられる。……もう少しで、切れる。婆には、どちらとも、申せませぬ』
「ひと月の見立ては、動きますか」
『前の余裕を、当てにはなさいますな。……それだけは、申し上げておきます』
「「「「…………」」」」
「聞いての通りだ。今夜の手応えに、明日の予定を預けるのはやめる。支度を、前へ倒す」
『あら。歌ったせいで期限が縮んだ、って顔ね。貴方たち』
ヴェイルの声は、静かだった。
『縮んだのかどうかも、分からないのよ。近づいたことだけは、確か。……どちらに近づいたのかも、あとどれだけあるのかも、誰にも言えないわ』
「……分からんものを、分かったことにして数えるのはやめる。前の余裕だけは、当てにしない。それだけだ」
観測日誌、本日の特記。ヴィクの字。
『療養十日目。灯の歌。大灯、揺れる。父さん、涙、一筋。“もう少し”を観測。母さん。届いてるよ。あなたの歌は、まだ、この塔で働いてる』
——就寝前、階段で、ひなたが、ぽつりと言った。
「れんしゅうの、うた より————ほんばんの、うた、よかった」
「き、聴いてたのか!?練習!!」
「「「「(しまった)」」」」
秘密の共有は、翌朝の写経四枚(全員分)で、手打ちとなった。




