第162話 飴玉の包み紙
療養七日目の朝、ヴィクは、あれを持って、頂の間に上がった。
古い布包み。五年分の、飴玉の包み紙である。
前の晩、この包みをめぐって、ひと仕事あった。
「地方別に仕分けたわ。北回りが十二枚、港筋が九枚、内陸が……」
「経理が土産の包み紙にまで台帳を作った」
「作るわよ。五年分の行程表なんだから、これ」
「なあ。飴の包み紙とっとく奴、初めて見たぜ。普通、捨てるだろ」
「す、捨てるわけないだろ!!……ぜんぶ、その、話す時の————台本だ」
「ん。だいほん、いいにおい、する」
台本は、甘い匂いがした。五年間、旅袋の底で、大事にされてきた匂いである。
「父さん。……今日は、土産の話を、する」
見張り椅子の父君の前に、小さな机を据え、ヴィクは、包み紙を、一枚ずつ、並べ始めた。
「これは、旅の最初の街の。……はっかの飴。安くて、まずかった。でも、初めての一人旅で、心細くて、買ったんだ」
一枚。
「これは、南の港町の。塩飴。……父さん、塩の飴なんて、あるんだぞ。汗をかく夏の、労働者の飴だって。世界は、広い」
二枚。三枚。
「これは……言いたくないが、記録なので言う。東の山道の、薬草飴。まずかった。まずすぎて、吐きそうになった。……でも、風邪が、治った。悔しい」
「(先生、まずい飴の話の時だけ、早口になるんだな)」
「(ん。にがい、きおく)」
十枚。二十枚。
「これは————フォルテの。蜂蜜の飴。私の、今の家の街の。……甘いのに、後味が、すっきりしてる。たぶん、父さんの、一番好きな系統」
包み紙は、五十枚を超えて、机を、色とりどりに埋めていった。五年間の旅路が、飴の包み紙の地図になって、動かない父の前に、広がっていく。
「……全部、覚えてるんだ。どの街の、どの味か。いつか、父さんに、聞こうと思ってたから。どれが一番か」
俺は、部屋の隅で、視線を切らさず、特記を追っていた。
停止。停止。停止。……停止の、連続。
ヴィクは、最後の一枚を、置いた。
「で、これが————里でもらった、凍り餅の飴版。新作だって。……まだ、私も食べてない。父さんと、半分こしようと思って、取っておいた」
包みから、本物の飴が、ひとつ、転がり出た。
ヴィクは、それを二つに割って、片方を、父の組まれた手の、指の間に、そっと、挟んだ。
「はい。半分こ」
その、瞬間だった。
視えた。
停止。……抵抗中。……“ 甘いのは ”
そして。
父君の、指が。
組まれたままの、大きな手の、人差し指が————一度だけ、ゆっくりと、曲がった。
飴を、握り込むように。
「「「「!!」」」」
「う、動いた!!父さんの指が!!」
『動いた……三年ぶりに、自分から————!!』
ヴィクは、父の手を、両手で包んで、叫ぶように、続けた。
「父さん!!聞こえてるんだろ!!飴、そこにあるからな!!溶けても知らないからな!!食べたかったら、自分で————自分で、口に、入れるんだぞ!!」
返事は、ない。指も、それきり、動かない。
だが、確かに————飴は、父の指の間に、握られていた。落とさずに。
——夜の症例会議は、沸いた。
「特記の透けは“甘いのは”まで読めた。続きは、たぶん、家の中の言い回しの類だろう」
『……あった。あったわ、それ。“甘いものの毒見は、娘たちの係”。父さんの、口癖……!!』
「口癖が、透けた。指が、動いた。方針は、正しい。呼びかけは、届いてる」
「ん。あしたは、あめを、ふたつ、おく」
「増量の決裁は、まだ下りん。……地下と、照合してからだ」
沙耶が、階段の下り口まで行って、その日の観測を、声に出して読み上げた。糸越しの返事は、すぐに、上がってきた。
『軋みは、昨日と、同じ程度でございます。……姫様の土産話は、旦那様には、よく効きましょうな。ただし、量を増やすのは、おやめなされ。薬は、匙加減でございますよ』
「据え置きだ。飴は、明日も、一つ」
「ん。……りょうかい。でも、あじは、かえる」
「味の改良は、増量ではない。可決」
台所の裁量権は、こうして守られた。
『毒見の係、ね。……思い出したわ。私たちが子供の頃、新しい菓子は、必ず娘の毒見からだったの。“毒見である。危険な任務である”って、真顔で。————一番食べたいのは、どう見ても父さんなのに』
「な、懐かしい……!!で、毒見のあと、必ず“異常なし。だが念のため、もう一粒”って」
『『「もう一粒」』』
姉妹の声が、揃った。揃って、二人で、笑った。見張り椅子の御仁の特記が、ちら、と透けたのを、俺は黙って記録した。“もう一粒”。
……親子の天丼は、五十年物である。
観測日誌、本日の特記。ヴィクの字が、躍っていた。
『療養七日目。父さん、指、動く。飴、保持。“甘いのは”を観測。五年分の土産、無駄じゃなかった。ぜんぶ、ぜんぶ、無駄じゃなかった』
インクが、最後の方で、少しだけ、滲んでいた。理由は、記録しない。紳士なので。




