第161話 ヴェイルの五年
機の間から上がってきた、その翌る夜のことである。
その晩、俺は台所で、夜食の芋を焼いていた。塔の台所は、火力が良い。
断っておくと、夜食は逃避ではない。儀式である。火を熾し、芋を並べ、焼き上がりを待つ間、誰にも邪魔されず闇と対話する。名付けて“漆黒の晩餐”。……実態は、腹が減って眠れない男の芋焼きである。
そこへ、ヴェイルが、ひとりで降りてきた。
『……起きてたの』
「夜食の時間なので。姉君も、どうぞ」
『……いただくわ』
焼き芋を二つに割って、火を挟んで、座った。妹と同じ食べ方をする姉は、芋も、同じ持ち方をした。
『ね。ひとつ、聞いていい?』
「どうぞ」
『貴方たち、どうして————怖がらないの。父さんを』
姉の金の瞳が、火越しに、こちらを見た。
『前の代の魔王よ。伝承では、村を消す化け物。実物は、口も利かない、動かない巨躯。……普通の人間なら、あの部屋に五分と居られない。なのに貴方たちは、初日から、あの部屋で飯の話をしてる』
「ふむ。逆に聞くが、姉君。俺たちの連中が、あの部屋で何を視てると思います?」
『……何を、って』
「観測日誌を音読してもらってる父親と、飯の匂いを嗅がせたい相手と、発音の採点をしてほしい先輩と————要するに、“ヴィクの父さん”を、です。魔王も化け物も、あの部屋には、最初から居ない」
『…………』
「伝承ってのはな、姉君。灯りの数を数えないんだ。……前に、俺たちの隼人が良いことを言った。実物の暮らしを見れば、怖さは、勝手に別のものになる」
ヴェイルは、芋を、ゆっくり齧った。齧って、長いこと、黙った。
『————五年、ね』
やがて、ぽつりと、話し始めた。
『五年前、ヴィクを南へ出して。父さんと、ばあやと、三人で、ここに残ったの。最初の二年は、まだ、父さんは話せた。少しずつ、言葉が減っていって……三年前の、あの夜からは、完全に』
「……あの夜の中身は、昨夜、ばあやから聞きました。姉君は、外から、見ていたわけだ」
『ええ。膜の外に、灰色が二人と、白いのが一人。声は、聞こえなかった。朝になったら、三人は消えてて……父さんは、椅子で、止まってた。手帳の、あの頁を開いたまま』
姉は、芋を持つ手を、膝に下ろした。
『……あの朝から昨夜まで、あそこで何が話されたのか、私、知らなかったのよ。三年、外側だけ見てた』
『それから、私の仕事は、鍵の番になった。ばあやは地下で膜を支えて、私は鍵を変え続けて、父さんの世話をして。……誰にも頼れなかった。里に降りれば、皆に迷惑がかかる。妹に報せれば、あの子は、飛んで帰ってくる。探し物の旅の途中で』
「……それで、五年、独りで」
『独りじゃないわ。ばあやが居た。父さんも————居た。返事は、なくても』
『日課も、あったしね。毎日、夕方、父さんの椅子の横で、その日の報告をするの。鍵の番の報告。膜の調子。里の風の噂。三年前からは、返事のない、一方的な報告。それでも続けて、五年で、千八百回』
「……続けられるものですか、それは」
『日課って、そういうものよ。やめ時が、ないの。それに————報告をやめたら、父さんが“居ない”ことに、なってしまうから』
「「…………」」
報告とは、相手が居ると信じる形式である。五年間、姉は、形式で父を守っていたのだ。
姉は、火を見つめて、それから、ふ、と自嘲した。
『……なんて、ね。強がりよ。本当は、何度も、思った。今夜こそ、南に文を出そうって。ヴィク、帰ってきてって。書いては、燃やした。五年で、たぶん、百回』
「百回、堪えたわけだ」
「堪えなくて、よかったんだ!!」
声は、階段の陰から、飛んだ。
ヴィクが、立っていた。寝間着のまま、涙目で、仁王立ちで。
『ヴィク————聞いて、』
「百回書いたなら、百回出せばよかったんだ!!私は、飛んで帰ってきた!!喜んで!!探し物なんて、放り出して!!……姉妹で、辛抱の分担を間違えるな!!私たちの、教本にも書いてある!!“隠し事は、缶詰と同じ。開けなければ、腐る”!!」
『…………教本?』
「絆外来の、公式教本である。第八症例の頁」
『何の話?』
「長くなるので、明日、写しを渡します」
姉妹は、火を挟んで、しばらく、睨み合った。睨み合って————先に、噴き出したのは、姉だった。
『……ふ。ふふ。言うようになったわね、ほんとうに』
「言わせる連中と、住んでるからな」
「で、だ。姉さん。今から、百通ぶん、聞くからな。燃やした文の中身。今夜は寝かせない」
『あら。長いわよ、私の五年は』
「望むところだ。私の五年も、長い」
俺は、焼き上がった芋を二つ、姉妹の間に置いて、静かに席を立った。
「ただし、その芋を食い終わるまでだ。姉君は、昨日から、三時間しか寝ていない」
『……数えてたの?』
「経理が数えていました。帳簿の欄外に、睡眠時間の行が増えている」
「ぐ。……分かった。今夜は、十通ぶんにする」
『十通でも、朝までかかるわよ』
「じゃあ、五通だ!!」
夜食の主催者は、席の譲り時と、閉店の時刻を、心得ているのである。
——階段の途中で振り返ると、火のそばで、紫の髪が二つ、同じ角度で傾いていた。五通ぶんの話は、芋が冷める頃に、ちゃんと終わった。残りの九十五通は、明日以降へ、繰り越しである。




