第160話 三年前の夜の、全部
「客人がた。ひとつ、婆の勝手を、お許しくだされ」
ばあやの手は、糸の上を、動き続けたままだった。
「三年前、旦那様から、口止めを承っております。娘たちには、聞かせるな、と。……婆は、それを、三年、守って参りました」
「……ばあや?」
「ですが、今日、破りまする」
機の音が、一拍だけ、乱れた。乱れて、すぐ、元に戻った。
「口止めを守って、旦那様を失っては、何にもなりませぬ。守るものの順は、間違えてはなりませぬでな。……姫様。姉上様。お怒りは、後ほど、いくらでも」
『…………ばあや』
「では、婆から、三年前の夜の、全部を、お話ししましょうかの」
機の間に、車座ができた。糸の光の下、ばあやの手は動き続けたまま、証言が始まった。
「あの夜。灰色が二人と、白いのが一人、膜の外に立ちました。いつもの“申し出”……ではありませんでしたな。あの夜のは“最後通告”でございました」
「文言は」
「『五十年の見張り、ご苦労であった。台帳は、完成に近い。残るは、貴殿の勘定、ひとつ。渡すなら、安らかに。渡さぬなら————娘たちの勘定から、順に、いただく』」
「「「「…………っ」」」」
『聞いてないわ、それ!!』
ヴェイルが、立ち上がった。ばあやは、糸を見つめたまま、静かに続けた。
「先ほど申し上げた、口止めでございます。……そして、あの夜、旦那様は、選ばれたのです」
「選んだ……何を」
「勘定の、棚上げを。ご自分の手で」
ばあやの声が、初めて、微かに、震えた。
「動く勘定は、奪えまする。合併も、できまする。……ですが、止まった勘定は、誰にも、触れませぬ。奪うことも、繋がることも。旦那様は、ご自分を、開かずの金庫になさった。鍵ごと、飲み込んで。……娘たちの勘定に、手を出させぬために」
頂の間の三年が、全部、繋がった。
『わたさない』は、鍵のことだけでは、なかった。娘たちのこと、だった。
「……止まってるのは、防衛だと思ってた。違ったんだ。あれは」
「人質の、身代わりだ」
ヴィクの拳が、白くなっていた。
「父さんは、私たちの代わりに、自分を差し出したまま、三年間————まだ、差し出し続けてるんだ。あいつらの目の前に。“こっちを取れ”って」
「そして、取らせない。止まってるから。……三年間、餌でありながら、開かない金庫であり続けてる。とんでもない綱渡りだぞ、これは」
『……馬鹿よ、父さんは』
ヴェイルの声は、怒りの形をした、泣き声だった。
『言ってくれれば、私だって————』
「言えば、姉さんは自分の勘定を差し出しただろ。私でも、そうする。……この家系は、そういう血なんだ。だから父さんは、黙った」
『…………』
「ん。かぞく、ぜんいん、おんなじことする、家」
ひなたの言葉に、姉妹は、否定を、返せなかった。
「ばあや。ひとつ、確認させてください」
沙耶が、帳面を握って、前に出た。
「敵の“台帳”は、完成に近い、と三年前に言った。私たちは道中、灰色の『数えた。残り、ひとつ』も聞いてます。……つまり、今は」
「完成しておりましょうな。おそらく」
「なら、あとは最後の一項————父さんの勘定を、取りに来るだけ。……三年待ったのは、なんで?」
「取れなかったからでございますよ。止まった勘定には、触れられぬ。……ですが」
ばあやの声が、一度、途切れた。手は、止まらなかった。止められないのだ、この人は。
「あなたがたが、来られた」
「「「「…………」」」」
「呼びかけが、届いております。旦那様の勘定が、揺れ始めております。……それは、起きる兆しであると、同時に“触れられるようになる”兆しでも、ございます」
機の間の糸が、低く、震えた。
「敵は、必ず、気づきまする。金庫の扉が、緩み始めたことに。……そして、扉が開くその瞬間を————狙って、参りましょう」
「つまり、だ」
俺は、状況を、板書の代わりに、声で整理した。
「父君が起きる瞬間が、一番の好機で、一番の危機。敵は、その瞬間に総力で来る。……起こすなら、迎え撃つ準備と、同時でなければならない。決戦の日取りを、こちらで決める、ということだ」
「ん。じゅんびが、いっぱい、いる」
「ああ。ひと月で、全部やる。全員、仕事の時間だ」
「物資の計算をするわよ。塔の保存食が五十年分あるから、兵糧は問題なし。問題は————人手と、術者の消耗。ヴェイルさんの膜と、ばあやの糸、二人とも限界間近。ここに追加の負担は、掛けられない」
「じゃあ、膜の“外”は、俺たちで受け持つしかねえってことだな。……いいぜ。体が疼く方の仕事だ」
「疼き=危険度最大って意味なのが、頼もしくも不吉なのよ」
「作戦名を、発表する。≪起こして、守って、勝つ≫だ」
「「「「捻りゼロ!?」」」」
「大事な作戦ほど、名前は分かりやすく、だ。姉御の教え、応用編第二である」
「実際、要点はその三つで全部なのよね……」
「ん。おぼえやすい。べんとうも、みっつ、つくる」
「弁当の数と作戦目標を揃えるな」
糸の光の下で、俺たちの戦支度が、始まった。
「ああ、それと。客人がた」
ばあやが、背中越しに、付け加えた。
「婆の糸は、まだ、ひと月は保ちまする。……ですが、決戦の日は、この糸、攻めにも使えますでな。三年編んだ膜の根は、伊達ではございませぬ。お忘れなきよう」
三年間、守り続けた人の声に、初めて、獲物を狙う色が、混ざっていた。




