第159話 機の間
機の間は、光の部屋だった。
地下なのに、暗くない。部屋の中央に据えられた、大きな大きな織り機から、無数の光の糸が、天井へ、壁へ、床へと伸びて、部屋全体を、淡い繭のように包んでいる。
塔の膜の、根っこである。
そして、織り機の前に————小さな背中が、あった。
ふくよかだったはずの体は、絵姿より、ふた回り、痩せていた。白い髪。曲がった背。皺だらけの手が、それでも、糸の上を、規則正しく、動き続けている。
「ばあや」
ヴィクの声に、老女の手は、止まらなかった。止まらないまま————声が、返った。
「おかえりなさいませ。姫様」
嗄れた、けれど、揺るぎのない声だった。
「五年ぶりの足音。階段の、三段飛ばし。……変わっておられませんな。姫様の足音は」
「ば、ばあや……こっちを、見なくても分かるのか」
「ばあやですから」
万能の理屈だった。老女は、糸から目を離さぬまま、続けた。
「よくぞ、お帰りに。よくぞ、ご無事で。……そして————よくぞ、良い足音を、たくさん、連れてこられた」
「足音で、分かるんですか。俺たちのことも」
「分かりますとも。騒がしくて、揃っていて、遠慮のない足音。これほど賑やかな足音が、この塔に響くのは、五十年ぶりです。……三年、婆が糸の向こうで聞いてきたのは、姫様の姉上の足音と、旦那様の呼吸だけでございました。それが、この四、五日で、いっぺんに増えましてな。点呼も、口喧嘩も、鍋の音も」
ばあやの口元が、皺の中で、笑った。
「良い療養です。あれは。この婆が保証しますよ。……ただし、条件がひとつ、ございます。それは、後ほど」
ひなたが、進み出て、籠を、機の脇の台に、そっと置いた。
「さしいれ。かたてで、たべられるの、だけ」
ばあやの手が、一瞬、糸の上で、揺れた。
「……片手の、飯」
「ん。あと、しるは、すいくちの、うつわ」
「…………姉上様が、三年、運んでくださいました。匙で、毎日。……ですが、婆が自分の手で口へ運ぶ飯は、三年ぶりでございますな」
泣かれるわよ、と姉は言っていた。ばあやは、泣かなかった。泣かない代わりに、焼き餅をひとつ、口に入れて、長い長い時間をかけて、味わった。
「美味しい。……この味の作り手なら、台所を、預けられますな」
「ん。まかされた」
魔王家の台所の引き継ぎが、糸の間で、静かに成立した。
「ば、ばあや。私も、報告がある。……湯が、沸かせるようになった。飯も、炊ける。繕い物も————三回に一回は、成功する」
「まあ、まあ」
「あと、その、先生をやってる。南の街で。……人に、ものを教えてるんだ、私が。教本も、書いた」
「まあ。まあまあまあ」
ばあやの相槌が、一段ずつ、あたたかくなっていく。
「花丸、七つでは、足りませぬな。帰ったら、表に、書き足しておきなされ」
「じ、自分で書くのか、あれ」
「よくできましたは、自己申告制ですよ。昔から」
「知らなかったが!?」
姉の四十二個の内訳に、疑惑が生じた瞬間だった。
『……申告は、正直にやったわよ?』
目が、泳いでいた。
——俺たちは、機の間の掃除と、ばあやの世話の当番を、その場で編成した。
ひなたは食事の改善(「ばあやが、じぶんの てで、たべられる ごはんを、ふやす」)、沙耶は糸の記録の整理、隼人と姉御たちは物資の搬入路と掃除。そして俺は————診察である。
織りは、誰も代わらない。代われない。代われるのは、その周りの全部だけである。
『……私の仕事は?』
「姉君は、寝てください」
『え』
「鍵の番だけ残して、あとは全部、こちらで引き取ります。運ぶのも、洗うのも、記録も。……五年ぶんの寝不足を、まず返済していただく」
『……返済』
「経理の言葉です。借りは、寝て返すのが一番安い」
「ばあやさん。診察の作法として、断っておく。拝見する」
「どうぞ、ご遠慮なく。……婆の下着の色に、驚かれますな」
「豪胆な患者だ!!」
一拍、切り替えて、拝見した。
ばあや。状態: 消耗(重度)。特記: 織り・継続。……“ 限界まで、あと、わずか ”。
「(……まずいな)」
「(ええ。三年、休みなしですものね……)」
「時に、ばあやさん。単刀直入に聞く。その糸、交代は、できないのか」
「できませぬな」
即答だった。
「この繋ぎは、始めた者が、終いまで持つのが定め。途中で手を替えれば、膜ごと、落ちまする。……終わらせ方は、ふたつだけ。膜が要らなくなるか————この婆の、糸が尽きるか」
「「「「…………」」」」
「おお、怖い顔をなさるな、客人がた。婆はまだ、尽きませぬよ。ただ」
ばあやの手が、初めて、ほんの一瞬、緩んだ。
「急いで、くだされ。旦那様を、起こすのを。……婆の糸より、旦那様の我慢の方が、先に、切れかけておりますでな」
「綱引きの話は、姉君から伺いました。……あれは、いつからの話です」
「あなたがたが門を叩く、ずっと前からでございますよ」
ばあやの手は、糸の上を、規則正しく動き続けている。
「三年、見て参りました。この糸は、塔の全部と繋がっておりますでな。旦那様の勘定の“軋み”も、伝わって参ります。……ここ、ひと月。軋みは、あなたがたが来られる前から、大きゅうなっておりました。呼びかけは、それを速めまする。……ですが、呼びかけをやめても、軋みは、止まりませぬ」
「黙っても、減るのか」
「減りまする。ゆっくりと、確実に。……堪える力は、応えたい力と、同じ場所から出ますでな。どちらを削っても、旦那様は、痩せてゆかれる」
沙耶が、帳面から顔を上げた。
「……つまり、“何もしない”は、選べないってことですね」
「左様でございます。……さきほど申しました、良い療養の条件が、これでございます。呼びかけを続けなされ。ただし、続けている間に、旦那様が“安心して手を離せる”形を、作りなされ。片方だけでは、間に合いませぬ」
「時間の見立ては」
「婆の勘で————ひと月。それまでに、旦那様が“安心して手を離せる”状況を、作ってくだされ。……それが、できるのは」
ばあやの目が、初めて、糸から離れて、俺たちを、ゆっくりと見渡した。
「あなたがたしか、おりませぬ」




