第158話 ばあやの部屋
『地下へ降りる前に、三階へ寄らせて。ばあやの入用を、いくつか持っていきたいの』
案内されたのは、塔の三階の、小さな部屋だった。
きちんと整えられた寝台。編みかけの毛糸。窓辺に、乾いた花。壁には、古い絵姿————幼い姉妹と、大柄な父と、そして、ふくよかな老女が、ぎゅうぎゅうに並んで描かれている。
「ばあやの、部屋だ。……私が居た頃の、まんまだ」
壁には、もうひとつ、古い貼り紙があった。手書きの表。題『よくできましたの表』。名前の欄が、二つ。
ヴィクの手が、素早く伸びて、下の欄の名前を、掌で覆った。覆った下から、花丸だけが、はみ出している。
上の欄————ヴェイル、四十二。
掌の下————七。
「な————っ。ば、ばあや、これ、貼りっぱなしか!!」
『あら、懐かしい』
「七って何よ、七って」
「い、いいだろ別に!!私は、床の雑巾がけが、その、苦手だっただけで!!」
『あと、湯沸かしと、繕い物と、早起きと』
「姉さん!!」
花丸の格差は、五年経っても、貼り出されたままだった。ばあやとは、そういう人らしい。
「今は、使ってないのか」
『五年前からね。ばあやは、地下に、移ったの。自分から』
ヴェイルは、編みかけの毛糸に、指で触れた。
『三年前、父さんが止まった夜。膜が、一度、大きく揺らいだの。父さんの術が止まりかけて、夜門が、消えかけた。……そのままなら、灰色は素通りだった』
「……誰かが、膜を、支えたわけだ」
『ばあやよ。地下の“機の間”で、塔の膜に、自分の糸を、繋いだの。それから三年、ばあやは、機の前から————離れられない』
「「「「…………」」」」
「離れられない、って……」
『糸を、離したら、膜が落ちるから。……食事も、眠りも、機の前で。三年間。私が鍵を変え続けられたのも、全部、ばあやが土台を支えてくれてたから』
沙耶が、口元を、押さえた。
「……この塔、父さんが三年、椅子で堪えてて。ばあやが三年、機の前から動けなくて。ヴェイルさんが五年、鍵を変え続けてて。全員が、全員、限界まで踏ん張って、やっと保ってた場所なのね」
『ええ。そして、そろそろ、限界なの。全員が』
ヴェイルは、絵姿を見上げた。
『だから、貴方たちが来てくれた時————正直に言うわ。手合わせだの器だの、偉そうなことを言ったけど。本当は、膝から崩れるほど、ほっとしてたのよ。……やっと、来た、って』
ひなたは、部屋の隅で、編みかけの毛糸を、じっと見ていた。
「……これ、てぶくろ。こどもの、て の、おおきさ。ふたりぶん」
『……ええ。私たちのよ。子供の頃の、編みかけ。“大人になったら要らないでしょ”って言ったら、“完成まで預かっておきます”って。……それきり、五年』
「ん。じゃあ、あんでもらう。はたから、はなれられたら。てぶくろ、かんせいさせてもらう」
「手が大きくなってるだろ、もう」
「おおきさは、なおせる。やくそくは、なおさなくて、いい」
「「「「…………」」」」
兵站長の言葉は、たまに、まっすぐ刺さる。
——地下への階段は、螺旋の中心を、深く降りていた。
降りるほどに、空気が変わる。乾いて、静かで、そして、微かに、糸の張り詰める音がする。震えるような、低い、張りの音。
「ん。した から、“はたらいてる”おと、する」
「機の音だ。……三年間、止まってない音だよ」
さっき台所で組んだ籠を、ひなたが、抱え直した。
「ん。さしいれ。“かたてで、たべられるもの”だけ、えらんだ」
一口大の焼き餅。飴。汁は、吸い口のついた器で。機から手を離せない人のための、兵站長の全力である。
「片手の飯……そうか。三年間、ばあやさんの飯は、ぜんぶ————」
『ええ。私が運んで、匙で。三年、毎日ね。……でも、片手で自分で食べられるなら、その方がいいわ。あの人、人に運ばせるのが、いちばん嫌いだから』
階段の先に、扉が見えた。里の“糸の間”の扉と、同じ意匠————ただし、三回りは大きい。
扉の前で、ヴィクは、一度、止まった。
「……ばあやに会うの、五年ぶりなんだ。私」
「うむ」
「私、その、成長したところ、見せられるかな。……湯も沸かせなかった私が、いちおう、飯も炊けるように、なったんだが」
「胸を張れ。悪口の一年生にもなったし、写経の宿題も出せるようになった」
「その成長は言わなくていい!!」
「あと、講座の先生もやってる。教本まで書いた先生だ。堂々と、報告してこい。五年分」
「……ん」
軽口で、肩の力が抜けたのを確かめてから、ヴィクは、扉に手をかけた。
「ばあや。ただいま。……開けるぞ」
扉の向こうから、機の音が、一段、大きくなった。
まるで————返事のように。




