第157話 父の手帳
それを見つけたのは、療養五日目の、書庫の整理中だった。
「ヴィク。これ」
沙耶が、書庫の机の抽斗から、取り出したもの。分厚い、革表紙の手帳だった。何十冊も、年代順に、几帳面に並んでいる。
『父さんの、見張りの手帳よ。……五十年分。読んでいいわ。もう、隠すことでもないから』
手帳は、驚くべき代物だった。
毎日、一頁。天候。北の空の色。魔素の流れ。訪れた者。そして最後に、短い所感が、一行。
『晴れ。帯、平常。ヴェイルが茶を覚えた。渋い。だが、飲む』
『雪。帯、微増。』
二行目の途中で、ヴィクの指が、素早く頁の上に置かれた。所感の行の、最初の数文字を、ぴたりと隠して。
「……な、名前の欄は、飛ばして読め」
「ほう?」
「飛ばせ!!『……が、階段で昼寝。三百段目。よく登った』!!これでいいだろ!!」
「(名前、長いのかしらね)」
「(ん。……ゆびいっぽんで、かくれてない)」
「「「「…………」」」」
「ちなみに圭吾。あんたの眼なら、指の下も————」
「視えん。指で隠れた文字までは、読めん。……それに、だ」
俺は、腕を組んだ。
「仕様の話を抜きにしても、視ん。名乗られる前の名前を盗み読むのは、紳士の作法に反する。名前は————本人の口から聞く日まで、取っておくものだ」
「た、たまにまともなことを言うな、お前は……」
「これ……観測日誌だわ。完全に。書式まで、ほとんど同じ」
「ん。……ヴィクの、にっしの、ごせんぞさま」
なお、幼少期の頁には、当たり外れがあった。
『……が、角磨きの粉を、砂糖と間違えた。菓子が、じゃりじゃりした。だが、食べた』
「ぐ……っ」
『……が、初めての雷の夜、姉の寝台に潜り込んだ。本人は“警護のため”と主張』
「け、警護のためだが!?六歳の警護だが!?」
「言い訳が六歳のままだぞ、我が眷属」
頁がめくれるたび、我が眷属の耳が赤くなっていく。五十年分の手帳とは、つまり、五十年分の親の目である。
ヴィクは、手帳を、震える手でめくっていた。自分の知らない、自分の記録。娘たちの成長が、見張りの記録の隅に、毎日一行ずつ、五十年。
「……知らなかった。父さんが、こんな……毎日……」
『言わない人だったから。書く人だったのよ、昔から』
——手帳は、読み進めるほど、記録としての顔を変えていった。
十年前あたりから、所感の行に、別の色が混ざり始める。
『帯、増勢。……南で、絆の解消が増えていると、風の便り。嫌な流れだ』
『灰色の来訪、今月二度目。数えて、帰るだけ。何を、数えている?』
五年前。ヴィクの旅立ちの日の頁。
『晴れ。……を、南へ出した。探し物の名目で。……すまない。変わっていく私を、お前にだけは、見せられない。良い連れに、恵まれることを』
名前の上には、また、指があった。ただ今度は、隠すというより、押さえる、みたいな置き方だった。
「っ」
ヴィクが、頁の上で、拳を握った。握って、開いて、それから、静かに、めくり続けた。
四年前。三年半前。所感の字が、少しずつ、硬く、短くなっていく。
『灰色、月に二度になった』
『“合併”の申し出、三度目。断った』
『申し出、七度目。文言が、丁寧になっていく。丁寧さが、こわい』
そして、三年前の、ある日の頁で、記録は、突然、終わっていた。
最後の頁。日付と、天候だけが、いつも通りの字で。
その下に、所感の行が————乱れた、大きな字で、一語だけ。
『わたさない』
以降、白紙。五十年続いた毎日の記録が、その一語で、止まっていた。
食堂が、長いこと、静まり返った。
「……“わたさない”」
「勘定合併の申し出を、断り続けて……最後は、これを書いて、止まった」
「渡さないために、止まった、のか?……自分ごと、金庫になって?」
「まだ、推測だ。だが————筋は、通る。動けば、渡してしまう何かが、あったんだ。動かなければ、渡せない。だから————」
『だから、止まった』
ヴェイルの声が、静かに、震えていた。
『三年間、私はずっと、父さんが“壊された”んだと思ってた。でも、違ったのね。父さんは————』
「戦ってるんだ。今も。三年間、一歩も引かずに」
ヴィクは、最後の頁の「わたさない」を、指先で、そっと、なぞった。
「……字が、乱れてる。父さんの字が、乱れるなんて。……よっぽど、だったんだ。よっぽど、追い詰められて、それでも————」
手帳を、閉じた。閉じて、胸に、抱えた。
「確かめたわけじゃない。手帳から、そう読めるだけだ。……それでも、言う。父さんは、立派に戦ってる。三年は、長すぎる。交代の時間だ。ここからは、私たちが、前線を代わる」
窓の外、夜の帯が、頂から、流れ続けていた。
『わたさない』の相手が誰なのか。何を渡さないのか。答えは、たぶん————地下に、居る。
ヴェイルが、立ち上がった。窓の外は、もう、すっかり夜だった。
『……今夜、降りましょう』
「今夜か。もう遅いぞ、姉さん」
『ばあやは、寝ないの。三年、機の前で、うたた寝しかしてない人よ。……それに』
姉は、手帳を抱えた妹を、見た。
『それを抱えたまま、朝まで待つ気なの。貴女が』
「…………待てない」
「決まりだな。籠を作る。ひなた、片手で食えるものを頼む」
「ん。まかせて」
『ばあやに、会いに行きましょう。全部の答え合わせを、する時間よ』




