第154話 頂の間
頂の間は、思っていたより、狭かった。
円形の部屋。ぐるりと巡る、大きな窓。北の空と、雪原と、氷の森が、全方位に見渡せる。見張りの間、という言葉の通りの部屋だった。
部屋の中央に、大きな灯りの器。青白い炎が、音もなく燃えている。五十年、色の変わらなかった、あの大灯である。
そして、その傍らに。
椅子が、ひとつ。
背の高い、古い木の椅子。北向きの窓に、正面を向けて。
そこに、座っていた。
大柄な人影だった。癖のある、長い髪。立派な、双つの角。膝の上に、組まれたままの手。背筋は伸び、目は開いて、北の空を、まっすぐに見ている。
生きている。呼吸も、している。瞬きも、時折、する。
ただ————それだけ、だった。
正直に、言う。絵になる、御方だった。
黒石の見張りの間。青白い大灯。双角の偉丈夫が、動かぬまま北を睨む。俺が十年、ノートの表紙裏に描き続けた“魔王”の完成形が、そこに居た。憧れの完成形と、我が眷属の父。その両方が、同じ椅子で、止まっていた。
「(……なあ。俺の体、ぴくりともしねえ。“最弱”のまんまだ)」
「(ああ)」
「(魔王サマの目の前で、だぜ。この人は、俺たちの、敵じゃねえってことだ。体が先に、そう言ってる)」
隼人の危険度計は、こういう時、どんな伝承より正確である。
「父、さん」
ヴィクの声が、震えた。
返事は、ない。視線も、動かない。娘が五年ぶりに帰ってきたのに、前の代の魔王は、北の空を見つめたまま、微動だにしなかった。
「父さん。……ただいま」
決めていた言葉が、頂の間の静けさに、落ちて、消えた。
返らなかった。
「…………」
ヴィクは、立ち尽くした。分かっていたはずだった。ヴェイルから、聞いていたはずだった。それでも————聞くのと、見るのとは、違う。挨拶が返らない父の前で、五年分の「ただいま」が、行き場を失って、宙に浮いていた。
俺たちは、何も言わなかった。言える言葉が、まだ、なかった。
先に動いたのは、ヴェイルだった。
姉は、慣れた足取りで父の傍らへ行き、膝の上の手に、自分の手を、そっと重ねた。
『父さん。ただいま。今日はね、客を連れてきたわ。大人数よ。騒がしいの』
返事のない父に、姉は、当たり前のように、話しかけ続けた。
『ヴィクが、帰ってきたの。五年ぶりに。……大きくなったでしょう。それから、あの子の————家族も、一緒』
三年間、毎日こうしてきたのだろう。返らない挨拶に、返らないまま、話しかけ続ける。その慣れた声の調子が、どんな泣き顔よりも、痛かった。
ひなたが、小さく、鼻を動かした。
「……このへや、“ごはんのにおい”が、ない。五十ねんぶん、ない」
「ん?」
「へやは、においを、おぼえるの。だいどころのある家は、かべが、あまいにおいになる。ここは“まってる”においだけ。……おなかの、すいたにおい」
「「「「…………」」」」
台所係の見立ては、いつも、腹の底から正しい。
「(……なあ、圭吾。あれ、ほんとに………)」
「(ああ。生きてる。生きてて————止まってる)」
俺は、覚悟を決めた。一拍、切り替える。
拝見する。
視えた、ものは。
「…………なんだ、これは」
思わず、声が出た。
健康状態: 良好。年齢: ————読めない。機嫌: ————該当なし。そして、特記の欄が————埋まっていた。びっしりと。見たこともない量の、絆のラベルで。
絆・停止。絆・停止。絆(夜の民)・停止。絆(塔)・停止。絆・停止。停止。停止。停止————
「どうした、圭吾」
「ある。全部、あるんだ」
俺は、掠れた声で、報告した。
「絆が、消えてない。ひとつも。姉君の言った通りだ。娘たちへの絆も、民への絆も、全部、そこにある。……あるのに、ひとつ残らず“停止”してる。凍った川どころじゃない。絆の、氷河だ」
『……視えるのね、やっぱり。それが、この三年、私が見てきたものよ』
ヴェイルは、父の手を、重ねたまま。
『さあ————どこから、始める?毛玉の皆さん。これが、貴方たちの、次の患者よ』
沙耶が、帳面を開いて、書いた。『新規患者、一名。症状: 絆・全停止。既往歴: 五十年の見張り番。初診日: 本日』。
「……看板、持ってくるべきだったわね。“絆外来・北の分院”」
「ん。かんばんより、なべ。もってきた」
「もう診療方針が決まってるのが、頼もしいわ」
窓の外で、北の空の帯が、この部屋を源に、南へ流れていた。
絆外来、史上最長の療養が、始まる。




