第153話 五十年の静けさ
見張りの塔の大扉は、ヴィクの手で、音もなく開いた。
五十年ぶりの客を、塔は、静けさで迎えた。
なお、入る直前、ひと悶着あった。
「待たれよ。ここは我が眷属の生家にして、魔王の塔。礼儀として、名乗りを上げてから入りたい。口上、三分で済む」
「済ませないわよ。却下」
「三十秒で」
「却下。お父さんは五十年待ったけど、私たちの三分は貴重なの」
「せめて一礼だけさせろ!!」
結局、全員で扉に向かって一礼してから、入った。礼はした。口上は没収された。
「……広い」
一階は、吹き抜けの広間だった。黒い石の壁。高い天井。中央に、上へと巻いていく螺旋階段。そして、階段に沿って、等間隔に、小さな灯りが点っている。青白い、揺れない灯り。
「塔の灯だ。頂の大灯と、同じ術式の子灯り。……五十年、点きっぱなしの」
『階段は、三百と六十段。昔、ヴィクが数えたのよ』
「か、数えたな、そういえば!!六歳の時!!途中で昼寝して、姉さんに担がれて」
『三日かけてね』
「その話は今いいだろ!!」
姉妹の声が、吹き抜けに、柔らかく反響した。五十年の静けさが、少しだけ、薄まった。
——一階の奥には、暮らしの間があった。
台所。食堂。書庫。寝室がいくつか。そして、驚くべきことに、埃が、なかった。
「……おかしい。あの静けさで、埃ひとつないぞ。誰が、こんなに綺麗にしてるんだ」
「ん。……だいどころ、つかったあと、ある。かまどのはい、あたらしい」
ひなたは、かまどの前にしゃがみ、灰を、ひとつまみ、検分した。
「はいの、しまつが、ていねい。すみの、おきかたも、きれい。これ、りょうりが、じょうずな人の、かまど」
「灰で腕前まで分かるのか、俺たちの鑑定士は」
「ん。かまどは、うそを、つかない」
『……ばあやよ』
ヴェイルが、静かに言った。
『父さんの世話と、塔の手入れ。この五年、私と、ばあやの二人でやってきた。……ばあやは今、地下に居るわ』
「ばあや!!生きて、居るんだな!!ここに!!」
『ええ。……ただ、地下の機から、手が離せないの』
「機」
『夜門の膜は、私ひとりで張っているんじゃないの。地下で、ばあやが糸を織り続けてる。あれが途切れたら、膜は落ちる。……三年、あの人は、あそこに座ったままよ』
「「「「…………」」」」
ヴィクの顔から、血の気が引いた。
『先に、父さんに会って。それから、皆で降りましょう。……ばあやは、逃げないわ。逃げられないの』
——書庫を覗いた時、事件が起きた。
「ほう。蔵書も一級……む?この背の低い棚は」
『ヴィクの、子供時代の棚よ』
「姉さん!!」
ヴィクが、飛んだ。棚の端の、糸で綴じた薄い帳面を、表紙ごと、胸に抱え込む。抱え込んだ拍子に、頁が、ぱらりと開いた。
開いた頁には、大きな字が、几帳面に並んでいた。表紙は、腕の下である。
「拝見」
「するな!!視るな!!お前の加護は今、完全に無駄遣いされてるぞ!!」
「無駄ではない。分析。この“と”の字、右に傾いておる。現在の講座の板書と、完全に一致。……ふ。歴史は、繋がっているのだな」
「何歳の字を照合してるんだお前は!!」
「六歳前後と見た。字の大きさと、罫からのはみ出し方から」
「当てるな!!」
『ちなみにその隣が、九歳の日記——』
「姉さんは黙っててくれ!!」
姉というものは、妹の黒歴史の司書である。妹が留守でも、蔵書の位置を忘れないらしい。
——移動の途中、俺の職業病と、経理の職業病が、同時に発作を起こした。
「見よ、この螺旋階段!!黒石の質感!!等間隔の青い灯!!壁の古文字の意匠!!……ここは、俺が十年間、設定ノートに描き続けた“魔王城”の完成形である!!素晴らしい!!住みたい!!」
「築年数と石材と立地から概算して……この物件、フォルテの我が家の、ざっと四百倍の資産価値ね。維持費は考えたくないけど」
『住みたい、と、査定。……塔への感想として、両方、初めて聞いたわ』
「俺たちの通常運転です、姉君」
隼人は隼人で、階段の手すりを、こんこんと叩いていた。
「なあ。俺の体、今“最弱”だ。この塔ん中、完全に安全ってことだよな」
「ああ。夜門と、ばあやの手入れの内側だからな。……大陸で一番安全な場所かもしれん」
「客を寄せつけなかった場所が、一番安全、ね。……皮肉なもんだわ」
——階段を、上り始めた。
三百六十段。一段ごとに、子灯りが、俺たちの影を、壁に映しては、後ろへ流していく。
百段目あたりで、ひなたが、ぽつりと言った。
「……この、とう。しずかだけど“しん”と、してない」
「ほう?」
「しん、は、だれもいない、しずかさ。ここのは“いきをころしてる”、しずかさ。だれかが、ずっと、まってる、しずかさ」
「「「「…………」」」」
『……その通りよ、大食いのお嬢さん』
ヴェイルの声が、少しだけ、掠れた。
『この塔は、三年、息を殺して、待ってるの。……主が、動き出すのを』
二百段。三百段。
足音と、鈴の音(縁鈴が、荷物の中で微かに鳴る)だけが、螺旋を上っていく。
そして————三百六十段目。
黒い石の廊下の先に、扉があった。頂の間の、扉である。隙間から、あの灯りの色が、細く漏れていた。
ヴィクの足が、止まった。
旅袋の紐を、握り締める。深呼吸を、ひとつ。ふたつ。
「(……行けるか)」
「(————ああ。五年、このためだけに、歩いてきたんだ)」
ヴィクは、扉に手をかけて、押し開いた。
五十年分の灯りの色が、廊下に、溢れた。




