第151話 門の前の、夜
門を開ける前夜は、静かに、更けていった。
天幕の中で、装備の最終確認。沙耶は行程表とロズリンの写しを並べ直し、隼人は剣を研ぎ、ひなたは明日の弁当(決戦仕様)を仕込み、姉御たちは矢と斧の手入れをした。ゴルドは、里への報告の文を書いた。
装備の手を止めた頃、それぞれの「前夜の儀式」が、静かに始まった。隼人は天幕の外で素振りを百本(音だけが、しゅ、しゅ、と規則正しい)。沙耶は帳面の最後の頁に、家族への手紙のようなものを書いて、すぐ破いて、書き直していた。ひなたは明日の弁当の包みを、いつもより丁寧に、結び直していた。
皆、口には出さない。出さないが、明日が大一番だと、全員の手が知っていた。
そして、俺は————見つけた。
天幕の隅で、ヴィクが、旅袋の中身を、全部、出していたのである。
写しの束。講座の教材。蜂蜜菓子の残り。縁鈴。木彫りの鼠(鼬)。そして————一番底から出てきた、小さな、古い布包み。
「……荷物の、棚卸しか」
「ん。明日、父さんに会うから。……見せたいものを、選んでた」
布包みの中身は、飴玉の包み紙だった。几帳面に畳まれた、色とりどりの包み紙が、何十枚も。
「五年分だ。……旅先で、うまい飴を見つけるたびに、包み紙を、取っておいた。父さんは、甘いものに、うるさい人だから。帰ったら、どれが一番か、聞こうと思って」
「ふむ」
「……子供っぽい、って、笑っていいぞ」
「笑わん。100点の土産だ」
俺は、隣に、腰を下ろした。
ちなみに、明日の弁当(決戦仕様)の中身は、こうである。凍らないおやつ(全員分+予備)、干し肉の甘辛煮(力が出る)、そして————飴玉が、ひとりに一個。
「飴?戦いの日に?」
「ん。————あめは、“だいじょうぶ”の あじが する。こどものころから」
兵站長の哲学は、明日も、口の中から士気を支える。
「なあ、ヴィク。……明日の朝一番の、俺たちの流儀を、決めておこう」
「流儀?」
「塔に入って、階段を上って、頂きの扉を開ける。その時、最初に言う言葉だ。お前の“名文”の宿題、道中ぶん、溜まってるだろう」
ヴィクは、包み紙を、そっと、布に戻した。
「……考えたよ。道中、ずっと。名文も、口上も、謝罪も、報告も、全部の型で。で、決めた」
「ほう。聞かせてもらおう」
「“ただいま”」
雪原の夜の、風の音だけが、しばらく、天幕を撫でた。
「それだけだ。五年ぶんの、全部。……変か?」
「いや」
俺は、首を振った。
「満点だ。俺たちの帳簿の、最後の項目と、同じなので」
「ん?」
「『ただいま、って、いう』。帰宅後にやることリスト、二十三番。ひなたの字のやつだ」
「……ふ。ふふ。そうか。……私の、リストと、一緒か」
ヴィクは、旅袋を、締め直した。
——寝る前に、外の空気を、吸いに出た。
夜門の膜が、月明かりの下で、淡く光っていた。その向こうの塔の頂きに、あの灯り。
膜の手前に、先客が、いた。ヴェイルである。
『……眠れないの、貴方も』
「主なので。眷属の大一番の前夜は、こういうものです」
『……その眷属だの主だの、まだ慣れないわ』
ヴェイルは、塔を見上げたまま、ぽつりと言った。
『ね。ひとつだけ、教えておく。明日、塔で————父さんが、貴方たちに、何の反応もしなくても。……妹の前では、驚かないで、あげて』
「……五十年は、人を変えるには長すぎる。里長にも、同じ忠告を頂きました」
『あの婆様らしいわね。……でも、私の忠告は、逆よ』
「逆?」
ヴェイルは、振り向いた。金の瞳が、月明かりで、揺れていた。
『驚かないであげて、は、妹のため。でも、貴方には、こっちを頼むわ。……もし、父さんの中に、ほんの欠片でも“動くもの”が視えたら。どんな小さな欠片でも。見逃さないで。貴方の、その眼で』
「承知した」
『……ん。いい返事』
姉は、妹と同じ相槌を打って、膜の内側へ、戻っていった。
天幕に戻ると、皆、もう、寝息を立てていた。ヴィクの旅袋が、枕元で、明日を待っていた。
夜明けまで、あと、数刻である。




