第145話 夜門
見張りの塔は、近づくほどに、言葉を失わせた。
黒い石を積んだ、天を突く針。窓は少なく、頂きの一点にだけ、灯りがある。あの、五十年、色の変わらない灯りが。
そして、空の帯は、確かに、塔の頂きから、流れ出していた。巨大な魔素の川の、源流である。
「……でけえ。王都の大聖堂より、でけえぞ」
「ん。……そらの、かわの、みなもと」
塔の麓、半里手前で、俺たちは、それにぶつかった。
見えない、壁である。
先頭のゴルドが、突然、歩けなくなった。壁があるのではない。本人いわく「足が、これ以上、前に出るのを、忘れる」のだという。
膜の際に沿って、雪の上に、奇妙な帯があった。俺は、視た。足跡は、ない。ないのに————雪の風紋だけが、綺麗に消えて、道の形になっている。何重にも、何十周分も。
「……灰色の、周回の跡だ。足跡を残さない連中の、五年分の“道”。膜の外を、回って、回って、回り続けてる」
「執念深いわね……」
「ん。————それより、おなか、すいた」
沙耶の声が、裏返った。
「この空気で!?」
「くうきでは、おなかは、ふくれない」
緊張の膜の前で、兵站長の腹の音が、健全に鳴った。おかげで、全員の肩から、少し力が抜けた。これも兵站の仕事である。たぶん。
「これが、“夜門”か。里長の言ってた、塔の結界」
俺は、視た。視て、唸った。
視えたのは、膜だった。あの、ヴィクの隠形の膜と、同じ質の、ただし、途方もなく大きく、途方もなく古い、光の膜。塔を中心に、雪原ごと、ドームのように覆っている。
「……同じ術だ。ヴィク、お前の隠形と、同じ系譜の」
「ああ。一族の術だ。それも、最上位の。“夜門”は、一族の血の他は、何も通さない」
「なるほど。道理で五十年、誰も近づけんわけだ。……で、我が眷属よ。開けられるのか」
ヴィクは、膜の前に、立った。
深呼吸を、ひとつ。それから、篭手を外した右手を、膜に、そっと当てた。
膜が、淡く、光った。
紫紺の色の波紋が、手のひらから、静かに広がっていく。膜が、ヴィクの血を、読んでいる。読んで、確かめて、そして、
波紋が、止まった。
膜は、開かなかった。
「っ。なんで」
ヴィクが、もう一度、手を押し当てた。波紋。停止。開かない。
「血は、通ってるはずだ。私は、確かに、なんで、開かない!!」
三度目。四度目。膜は、そのたびに波紋で応え、そのたびに、沈黙した。まるで、
「……まるで、迷ってるみたいだな」
「え?」
「見ろ、波紋の形。拒否なら、弾くはずだ。だがあれは、毎回、お前の血を最後まで読んでる。読んで、読み終えて、それでも、開けない。開けられない事情が、膜の側にあるみたいに」
開かない膜を前に、俺たちは、ひとまず落ち着いた。落ち着く時の手順は、決まっている。設営と、湯沸かしである。
「開かない門の前でお茶の支度を始める隊、私たちくらいよね」
「焦って開く門なら、とっくに開いてる。……なら、茶だ」
「ん。あったかいのを、のむと、あたまが、うごく」
その時だった。
『開かないわよ』
声が、した。
膜の、向こう側から。
雪原の白の中に、いつの間にか、人影が、立っていた。膜の内側に。長身の、外套の人物。頭巾の下から、長い髪と、二本の、見覚えのある形の、角。
ヴィクの息が、止まった。
『その門は、もう、貴女の血だけじゃ開かない。……私が、内側から、鍵を変えたから』
声は、女性のものだった。低くて、静かで、そして、どこか、ヴィクの声と、同じ音色をしていた。
「あな、たは」
ヴィクの声が、震えていた。膜越しの人影は、頭巾に手をかけて、下ろした。
紫の髪。金の瞳。ヴィクより年嵩の、よく似た顔立ち。
『五年ぶりね。……ヴィ————』
「その名前は!!」
ヴィクが、叫んだ。叫んでから、自分の叫びに、自分で驚いた顔をした。
人影は、口を、閉じた。閉じて、金の瞳を、細めた。
『……そう。今は、名乗ってないの。なら、“ヴィク”。聞くわ』
膜越しの視線が、ヴィクの後ろの、俺たち九人を、ゆっくりと撫でた。
『その連れは、何。人間を、連れてきたの。ここに』
雪原の風が、止まった。
ヴィクは、拳を握って、握って、それから、絞り出すように、言った。
「姉さん」
俺たちの全員が、息を呑む音が、聞こえた。
膜の向こうの人影は、否定を、しなかった。




