第142話 氷の森
氷の森は、音のない森だった。
凍った巨木が、何百本も、水晶の柱みたいに立ち並ぶ。枝は氷をまとい、風が吹くと、森全体が、ちりちりと硝子の音を立てる。美しくて、寒くて、そして、静かすぎた。
「……鳥も、獣も、いないのか」
「いや。いる」
ひなたが、鼻を、ひくつかせた。
「におい、する。とり、りす、しか。……でも、みんな、しずか。いきをひそめてる、かんじ」
「息を、ひそめてる。……何から?」
「わかんない。でも、もりぜんたいが、“しーっ”て、してる」
俺たちの探知係の表現は、いつも詩的で、いつも正確である。森全体が、しーっ、としている。入った瞬間から、俺たちも、自然と声が小さくなっていた。
——森の中程で、俺の眼が、それを拾った。
「待て。右手の木立の奥。何か、ある」
木立を抜けた先の、小さな空き地に、それは、立っていた。
石柱である。石碑よりも細く、人の背丈ほどの。表面に、あの古体の文字が、刻まれていた。そして、石柱の周りだけ、雪が、なかった。凍ってもいない、乾いた地面が、綺麗な円を描いていた。
「……術の痕だ。それも、まだ生きてる」
ヴィクが、石柱に、そっと手を触れた。
「これは、“結び柱”。古い、旅の術だ。土地と土地を、繋いで、道を守る。……ばあやの話に出てきた。昔は、北の街道沿いに、何十本も立ってたって」
「読めるか、文字」
「ん。『みちは、むすばれて、みちとなる』……道は、結ばれて、道となる」
「石碑と、同じ系譜ね」
「ああ。……そして、見ろ。この柱、まだ、術が生きてる。誰かが、手入れを、してるんだ」
「五十年、誰も通ってないはずの森で?」
「…………誰も、じゃ、なかったんだろうな」
一同が、静かに、顔を見合わせた。この森を、定期的に歩いて、柱の術を守っている、誰か。
「(……ばあや、だと思うか)」
「(可能性は、ある。北に居るなら。それか)」
「(それか?)」
「(————塔の、誰かだ)」
——結び柱は、森の中に、等間隔で、続いていた。
一本、また一本。柱を辿ると、自然と、歩きやすい道筋になる。凍った倒木は避けられ、氷の裂け目は迂回され、風の弱い筋を、道は選んでいた。
道すがら、俺たちは、結び柱の雪払いを、勝手に始めた。ヴィク指導のもと、柱の周りの雪をどけ、氷を割り、刻まれた文字の溝を布で拭く。
「手入れの主に、会ったこともないのにか?」
「会ったことがないから、だ。————道の世話になったら、道に礼をする。北の流儀だろ?」
「……ん。満点だ、その理屈」
先生の採点が、身内に甘くなってきた今日この頃である。
「すげえな。……道が、生きてる」
「結ばれてるからな。誰かの手入れの分だけ、道は、旅人に優しい」
途中、開けた場所で、昼食を取った。凍らないおやつと、熱い白湯。静かな森の中の、静かな飯である。
「……なあ。気づいてるか、お前ら」
隼人が、ぽつりと言った。
「俺の体、今————“最弱”なんだよ」
「「「「!?」」」」
「加護がな、ぴくりとも仕事してねえの。つまり、少なくとも今は、ここで飯を食ってても平気らしい」
「……この道に、守られてるわけか」
「五十年もののお守りの上を、歩かせてもらってるわけね、私たち」
ちなみに、この森の静けさは、俺たちには、少々つらかった。
「(静かすぎて、逆に落ち着かないのよ……)」
「(ん。おしゃべり、したい。でも、もりが、しーっ、てしてる)」
「(筆談にするか)」
かくして、行軍中の雑談は、沙耶の帳面を回す筆談になった。帳面には『芋の残数への抗議(隼人)』『抗議の却下(経理)』『字が汚い(先生)』が並んだ。静かな森で、俺たちは、紙の上でもうるさかった。
手入れの主が誰であれ、その手は、旅人の味方だった。
——夕方。森の出口が、見えた。
そして、出口の向こうの雪原の果てに、それが、初めて、見えた。
天を突く、黒い針。
距離は、まだ遠い。だが、見間違えようがなかった。空の帯が、あの一点から、南へ、ゆっくりと流れ出している。
「見張りの、塔」
ヴィクの声が、白い息になって、消えた。
五年間、探し続けた場所が、視界の中に、あった。
長い沈黙のあと、最初に動いたのは、ヴィクだった。観測日誌を取り出し、震えそうな手で、定位置の書式を書き始めたのである。
『視認。見張りの塔。方位、北北西。距離、推定二日。特記————』
ペンが、一度、止まった。それから、続きが書かれた。
『特記: 五年、探した。着いた』
書式の中の、たった八文字が、五年分だった。
「……観測、完了。————行こう」
誰も、何も言わなかった。ただ、全員が、隣の誰かと、少しだけ、距離を詰めて立っていた。




