第139話 安全になったので、重い
出立して、四半刻も経っていなかった。
背後を振り返れば、里の灯が、まだ、数えられるほどの大きさで並んでいる。夕暮れの雪原は、青くて、平らで、退屈なくらい静かだった。
その静けさを、先頭のゴルドが、片手を上げて、止めた。
「————止まれ。左、二百歩」
雪の窪みに、小橇が一台、傾いていた。
薪を積んだ荷が半分こぼれ、そのそばに、里の作業着の男が二人。一人は膝をついてこちらへ手を振り、もう一人は、雪に座り込んで動かない。
いや、動けないのだ。
「片方、橇の下に足が入ってる」
俺は、視た。加護が、走る。
——男。健康状態: 良好。疲労: 中。特記: 右足、圧迫。
「まだ“良好”だ。潰れちゃいない。……だが、抜かないと、そのうち良好じゃなくなる。ゴルド、雪はどうだ。近づける側は」
「南から入れ。北側は、下が空洞だ。踏んだら、あんたごと落ちる」
ゴルドは、雪の色を、二百色に見分ける男である。俺の眼にも、雪の下の地形までは見えない。ここは、こいつの領分だった。
「ロゼ姉御。南から回り込みます。……それと」
俺は、林の縁を指した。
「三頭。北東から、真っ直ぐ来ています」
灰色の背が、三つ。狼型。……目が、濁っていない。走り方も、ばらばらだ。芯を植えられた群れの、あの、揃いすぎた動きではない。
おそらく、ただ腹を空かせただけの、普通の魔物である。
そして普通の魔物は、普通に、人を食う。
「はいはい、仕事ね。————デガン!!」
「おう」
《酔いどれ猫》の巨漢が、一言で走った。三語の男は、走るのが早い。大盾が、作業者二人の前に、どすんと据わる。それだけで、二人の顔から、恐怖の三割が抜けた。
「ミロ、サラ、側方!!あたしは一頭引っ張る!!」
「了解!!」
「姉御、無茶しないでよ!!」
ロゼが、わざと大きな音を立てて、人のいない西の雪原へ駆けた。先頭の一頭が、あっさり釣られる。逃げ足の年季が違う、というのは、こういうことらしい。
「ひなた、ヴィク。撃つな」
「ん。……ひと、はいってる」
「分かってる。人と荷と獣が、一直線だ。抜けるまで待つ」
我が家の二門は、撃たないことも、仕事のうちである。
「隼人!!」
「おう!!」
エースが、傾いだ小橇の縁を、両手で掴んだ。
三頭と、抜けない足と、崩れる雪。隼人の腕が、鳴った。
「せぇの————ッ!!」
薪ごと、小橇の前半分が、持ち上がった。
「今だ!!引け!!」
ゴルドの太い腕が、男の脇に入って、雪ごと、ずるりと抜いた。
「荷紐、押さえるわよ!!」
沙耶が、こぼれかけた薪の紐に体重をかける。二度目の滑落は、起きなかった。
「よし、抜けた!!隼人、下ろせ!!」
——ここからが、討伐である。
「姉御、横へ!!」
俺の声で、ロゼが、跳ぶように西へ退いた。
釣られた一頭が、人のいない雪原の真ん中で、独りになる。
「もらった」
隼人の剣が、一閃した。一撃だった。
「二頭目、左!!サラの後ろから回り込んでる!!」
「うるさいわね、見えてるわよ!!」
サラの投げ小刀が、二頭目の鼻先の雪に、突き刺さった。灰色が、たたらを踏んで、足を止める。
「ん」
その一瞬に、ひなたが、腰だめから投げた。
黒パンが、うなりを上げて飛び、二頭目のこめかみに、ゴッ、と入った。灰色が、横倒しに雪へ沈む。サラが振り向いて、心底、嫌そうな顔をした。
「あんたら、そのパンで魔物殺すの、いい加減慣れないんだけど!?」
「慣れてくれ。あと十年は続く」
三頭目が、最後まで、作業者の側から離れなかった。
「デガン」
「おう」
大盾が、じり、と前へ出る。押される。押されて、狼が、じり、と後ろへ下がる。三語の男の押し合いは、静かで、確実だった。
「そのまま北東へ!!ロゼさん、外から音を!!」
「はいよ!!」
ロゼが外側から、剣の腹で胸当てを打ち鳴らす。盾に押され、音に嫌がり、三頭目は、じりじりと、無人の雪地へ追い出された。
「ヴィク」
「————分かってる」
紫紺が、灯った。細くも、鋭くもない、いつもの一撃だった。それで、充分だった。
三頭目が、雪の上に、伏した。
「————周り、確認!!ミロ!!」
「見えません!!他に気配なし!!」
「ゴルド、足場は」
「南側は固い。北の窪みは、埋め戻せば通れる」
脅威が、消えた。
——そして、隼人が、弱くなった。
「よし。橇を、窪みから出すぞ」
小橇は、まだ、傾いだままだった。足を抜くために持ち上げて、抜けたので下ろした。それきり、雪の窪みに、片側を沈めて置いてある。
エースは、その取っ手を、片手で掴んだ。
掴んで、動かなかった。
隼人は、無言で、片腕の袖をまくった。取っ手を、握り直した。それから、もう片方の袖も、まくった。
「安全になったから重い」
「助けた人のせいみたいに言うな」
「言ってねえよ。事実を言ってる」
「事実の言い方に品がない」
デガンが、無言で、反対側の取っ手を持った。ゴルドが後ろから押し、サラが薪を積み直し、結局、みんなでかかって、小橇は窪みから固い雪の上へ出た。
これが、うちのエースである。危ない時に一番強く、済んだ途端に、荷物が重い。……もっとも、山場が過ぎた途端に荷物を人へ回すのは、加護をもらうずっと前から、こいつの十八番である。
——手当てと、引き渡し。
挟まれた足は、腫れてはいたが、体重をかけて歩けた。打撲である。沙耶の携行袋から、包帯が一巻き。
「無茶しないの。今夜は、里で寝ること」
「す、すまねえ。……薪を、日が落ちる前に運びきろうとして、欲を出しちまって」
「気持ちは分かるわ。うちにも、そういう欲の人がいるから」
「二名ほどな」
「三名でしょ」
引き渡しは、ミロとサラが引き受けた。里の灯までは、目測でも近い。
「大人に手渡すまで見届けて、戻ります。野営、どのあたりですか」
「この救助地点の風下だ。あんたらが戻る頃には、火が入ってる」
「了解。————サラ、行くよ」
「はいはい。……姉御、あたしらが戻るまでに、いい場所取っといてよ。風下の、火の近く」
魔物の骸は、里の衆が回収に来ることになった。冬の北で、狼の毛皮は、金である。爺さんたちが喜ぶ、とゴルドが言った。
——野営。
八人と、橇一台。里の灯は、まだ見える。妙な気分の初日である。
毛皮の敷物が、里の婆たちの差し入れの分だけ、広げられた。数えると、一枚、足りない。
「ふむ。ここは合理的に、二人で一枚を分け合うのが————」
「あんた、風呂敷持ってるでしょ」
「これはマントである!!」
「じゃあマントを敷きなさい。浪漫は防寒になるんでしょ」
漆黒のマントは、この夜、敷物になった。荷物包み用の黒布は、頑丈だった。
一番火に近い一枚には、ヴィクが座らされた。
「な、なんで私なんだ」
「一番、寒がりだからだ」
「私は北の生まれだぞ!?」
「北の生まれが五年南で暮らすと、こうなるんだよ」
ヴィクは、口では文句を言いながら、しっかり真ん中に座った。篭手の紐に結んだ縁鈴が、身じろぎのたび、小さく鳴った。
「……なあ、圭吾」
火の向こうで、ヴィクが、ぽつりと言った。
「出発して、四半刻もしないうちから、こんな目に遭うとはな」
「幸先がいい」
「どこがだ!!」
「出発早々、人を二人拾って、狼を三頭片付けて、全員無事だ。……この先も、この調子でいこう。拾って、片付けて、全員で帰る。それだけの旅だ」
ヴィクは、何か言いかけて、やめた。やめて、敷物の上で、少しだけ、火に近づいた。
ミロとサラが戻ってきたのは、鍋が煮えるより、少し前だった。二人とも、里の大人に手渡すところまで見届けたと報告し、それから、当然の顔で、鍋の前に座った。
サラの投げ小刀は、一本、雪の中である。明日、里の衆が骸を回収するついでに拾ってくれるという。
十個の鈴が、十個そろって、火のまわりで鳴った。
橇一台と、十人。
塔まで、まだ遠い。




