第138話 雪原の灰色
里の滞在、三日目の朝。それは、市場の噂話から始まった。
「灰色が、また、通ったらしいぞ」
凍り餅の屋台のおやじが、声を潜めて、隣の客に話していた。俺たちの耳(全員分)が、一斉に、そちらを向いた。
「おやじさん。今の話、詳しく」
「ん?ああ、南の客人か。……三日前だ。西の谷の牧場のじいさんが見た。雪原を、灰色の外套が二人、まーっすぐ歩いてったと。足跡も残さずにな」
「方角は」
「北北西。……塔の、方角だよ」
——里長の家で、緊急の寄り合いになった。
「灰色の目撃は、これで、今年に入って四度目じゃ」
里長が、北の地図を、囲炉裏の縁に広げた。目撃地点に、火箸で印がつく。四つの印は、ばらばらの場所から、しかし全部、北北西へ向かう線の上にあった。
「全部、塔へ向かっとる。……巡礼の帰り道、というよりは」
「集まってる、ですね。塔に」
「うむ」
沙耶が、帳面を開いた。
「整理するわよ。灰色の行動記録。王都で二人。キリノ里で二人、その時の言葉が『数えた。残り、ひとつ』。谷の岩壁で目撃一回。そして今、北で四度の目撃、全部塔方向。……ねえ、嫌な仮説を言っていい?」
「言え」
「“数える”のが、目録作りだとして。目録が、完成に近づいてるとしたら?『残り、ひとつ』が、目録の最後の一項目だとしたら?」
囲炉裏が、静まった。
「……で、数え終わった目録は、どうなると思う?」
「決まってる。提出、でしょ。どこかの、誰かに」
「その提出先が、塔の方角にある、と」
ヴィクが、地図の北北西の端を、じっと見た。塔の印は、地図の、いちばん上にあった。
「……急ごう。目録とやらが完成する前に、塔に着きたい」
——出立の支度は、その日のうちに整った。
里の衆は、驚くほど、協力的だった。橇が一台、供出され、保存食が積まれ、ゴルドが道案内に立候補した。
「氷の森までは、俺が知ってる。そこから先は————正直、誰も知らん。五十年、誰も行ってないんだ」
「充分だ。恩に着る」
出立の噂は、里を半周し、コルン村と同じ現象が起きた。差し入れ攻勢である。文化は違えど、婆の行動原理は大陸共通だった。
「凍り餅じゃ!!三十個!!」
「毛皮の敷物!!橇で尻が冷えるじゃろ!!」
「うちの角磨き油!!嬢様の角に!!」
「り、里の皆、あの、荷が、荷が増える……!!」
「観念しなさい、ヴィク。断る方が失礼なのは、あんたが一番知ってるでしょ」
「〜〜っ、ありがたく、いただきます!!」
また、ゴルドの見送りには、奥方と小さな娘が来ていた。娘が父の巻き角にしがみつき、「とうちゃん、つののおねえさまを、たのんだよ」と言った。ゴルドは「おう」とだけ言って、娘の頭を、大きな手で撫でた。北の男の別れは、短い。
里長は、出立の九人+一人に、戸口で、縁鈴をひとつずつ、渡した。
「旅の縁鈴じゃ。……夜の民はな、旅に出る家族の数だけ、鈴を持たせる。帰ったら、戸口に、掛け直すために」
「帰ったら、返しに来い、ということですな」
「そう。十個、貸すからの。十個、返しにおいで」
「「「「「はい!!」」」」」
ヴィクは、自分の鈴を、篭手の紐に、そっと結んだ。
——夕方の出立の間際、里長が、最後に、ヴィクだけを呼んだ。
囲炉裏の間で、二人きりの話は、長くはなかった。戻ってきたヴィクの顔は、白くて、でも、まっすぐだった。
「……何を言われたか、聞かないぞ。荷物の約束なので」
「ん。……ひとつだけ、共有する。里長は、こう言った。『塔で何に会うても、驚きなさるな。五十年は、人を、変えるには長すぎる』と」
「ふむ」
「……覚悟しておけ、って意味だと、思う。私も、お前たちも」
見送りには、里の子供らも、総出で来ていた。
「くろいひとー!!また、うたってねー!!」
「無論である!!次はもっと良い歌を仕込んでくる!!」
「おおぐいひめー!!こおりもちの、たべかたのしんきろく、まっててー!!」
「ん。じゅうさんこ、こえてみせる」
「つののおねえさまー!!……えっと、その、また、きてね!!」
最後の子は、ヴィクに、押し花を一輪、渡した。北の、冬の花だという。ヴィクは、それを写しの束の間に、そっと挟んだ。
橇の鈴が、鳴った。夕暮れの雪原を、十人と一台が、北北西へ、滑り出した。
背後の里の灯が、小さくなっていく。前方の空には、あの帯。そして、その根っこに————まだ見えない、塔。
灰色より先に、着かねばならない。




