第137話 糸の間
“糸の間”は、里長の家の地下に、あった。
石積みの階段を降りた先の、乾いた小部屋である。扉の奥には、埃よけの布をかけられた、大きな織り機がひとつと、壁一面の、織物。
「これは……」
「“織図”と言うてな。昔の夜の民が、世界の糸のありようを、織物に写しとったんじゃ。地図、のようなものよ」
布を外された織図は、圧巻だった。
無数の色糸が、絡まり、結ばれ、大きなうねりを描いている。よく見ると、うねりのところどころに、結び目の集落があり、太い束の川があった。
「(……ねえ。この織図、市場に出したら、いくらに)」
「(経理。国宝級の資料を前に、査定を始めるな)」
「(職業病なのよ!!……算定不能。毛玉と同じ枠だわ、これ)」
「これが、五十年前までの、北の糸のすがた。……で、こっちが」
里長が、隣の織図の布を、外した。
「三十年前に、最後にこれを織れた婆様が、遺したものじゃ」
二枚目の織図は、違っていた。
一枚目でうねっていた糸の何割かが、まっすぐに、伸びていた。結び目が、減っていた。そして、織物の上の方、ひときわ太い束のあった場所に、穴が、あった。
糸が、ないのではない。織られていない、四角い、空白。
「……里長。この、空白は」
「見張りの塔じゃ」
囲炉裏の間より、地下の空気が、数度、冷えた気がした。
「塔の糸は、太い。北で一番、太い。世界の帯の、要の結びじゃからの。……なのに、三十年前の婆様は、ここを、織れなんだ。“視えない”と言うての。視えないものは、織れん、と」
「三十年前から、視えない。……五十年前から、代替わりの記録がない。符合する、な」
ヴィクの顔が、白かった。織図の空白を、食い入るように見つめていた。
「里長。……塔には、今、誰が居る。夜の民は、何か、知ってるのか」
「知らんのじゃよ、誰も」
里長は、静かに首を振った。
「塔は、この五十年、誰も近づけん。“夜の関”よりも固い結界が、麓に張られとる。開けられるのは、あの御家の、血筋だけじゃ」
視線が、自然と、一人に集まった。
ヴィクは、拳を、固く握っていた。
「……そうか。だから、誰も」
「そうじゃ。……して、ヴィク様。ひとつだけ、年寄りの忠告を」
「聞く」
「塔の灯はな、点いとる。今も。毎晩な。……じゃが、この里の年寄りは、皆、こう言うとる。“あの灯は、五十年前から、色が変わっとらん”と」
「色が、変わらない?」
「灯りというものはな、揺れるもんじゃ。強うなったり、弱うなったり。人が守る灯なら、なおのこと。……変わらん灯は、灯のかたちをした、別のなにかじゃ」
地下室の沈黙は、長かった。
「里長さま。お願いが。この織図、部分の写しを、取らせていただけませんか。特に、塔の空白の周辺を」
「……ふむ。長く、人目に触れさせなんだものを、の」
「対価は、払います。私たちの半年分の観測記録の写し————南の“糸”が、今、どうなってるかの、生の記録です」
里長の細い目が、開いた。
「……南の記録と、北の織図の、交換。ほっほ。ほっほっほ。五十年、途切れとった南北の糸が、今、お前さんの帳面で結ばれたわ。……良い交渉じゃ。許す」
「(経理、国宝の写しを観測日誌で買った……)」
「(等価交換よ。価値ってのは、値札じゃないの)」
——階段を上がる前に、里長は、沙耶に、小さな包みを渡した。
「素還りの、口伝の写しじゃ。百年前の、最後の使い手の言葉。……たいしたことは書いとらん。じゃが、一行だけ、お前さんに要る言葉がある」
沙耶は、その場で、包みを開いた。古い紙に、古い字で、一行。
『素還りは、恥にあらず。晒すは、信ずるの、いちばん深きかたち』
「…………」
「泣くには早いぞ、お嬢。……その力、これから、要る。北の奥ではな」
里長は、細い目で、笑った。
「なにせ、お前さんがたの行く先は、五十年、誰にも心の底を見せとらん場所、なんじゃから」
地下からの帰り、階段で、ひなたが、ぽつりと言った。
「ん。……おりず、きれいだった。ふるいほう」
「古い方が、か?」
「ん。あたらしいほう、きれいすぎて、“おいしくなさそう”だった。ふるいほうは、ごちゃごちゃで、おいしそう」
「……兵站長の美意識、世界の真理と一致してるのよね、たまに」
観測日誌、本日の特記。ヴィクの字は、いつもより、深く紙に食い込んでいた。
『塔の灯、五十年、色が変わらず。結界は血筋のみ通す。……つまり、開けるのは、私だ。私しか、いない』




