第130話 石碑の文字
朝の峠は、憎らしいほど、晴れていた。
昨日の吹雪が「越えさせたくない誰か」の仕業だったなら、今日の晴れは「観念した誰か」の顔である。……考えすぎかもしれない。北では、考えすぎくらいで、ちょうどいい。
峠を下り始めて半刻。それは、道の真ん中に、立っていた。
石碑である。
人の背丈の倍はある、黒っぽい一枚岩。風雪に磨かれて、角が丸い。そして、その面に、文字が刻まれていた。
グスタフさんが話していた「互いに踏み越えぬこと」の碑は、これではなかった。こちらは、峠道の道標である。
「……読めるか、お前ら。講座の成果を見せてみろ」
「ふっ、任せろ。ええと————“これより、きた”……“よるの、たみの”……」
「“これより北、夜の民の地”。正解。三年目の文字まで読めてる。及第だ」
ヴィク先生の採点が入った。北方古語講座、実地試験である。
「下の行は……“たびびとは、ひをけせ”?火を消せ?」
「“旅人は、火を掲げよ”だ。真逆に読むな。夜の民の地では、火を隠す方が無礼なんだ。灯りを掲げて、正面から来い。こそこそ来る者だけを、警戒する」
「教官の“火の近くに座れ”と同じ理屈ね」
「北の礼儀は、つながってるんだ」
そして————沙耶が、石碑の裾を指した。
「ねえ。ここ、もう一行あるわよ。すごく、古いやつ。彫りが浅くて、苔で埋まってる」
ヴィクが、しゃがみ込んだ。苔を、指で、丁寧に払う。現れた文字の列に、先生の目が、細くなった。
「……これは、講座で教えてない字だ。古語より、もっと古い。“古体”……ばあやが、歌の写しでだけ使ってた字だ」
「読めるか」
「少し、待て」
ヴィクは、長いこと、石碑の裾と、にらめっこをした。唇が、何度か、動きかけては、止まった。
「…………読めた。たぶん。こう、書いてある」
『むすびて、あれ。ほどくもの、きたるとも』
「「「「…………」」」」
「結びて、あれ。……ほどくもの、来たるとも」
背中に、冷たいものが走った。
遊び歌の文句を、思い出したのである。むすんで、むすんで、なないろのいと。からまりしものは、といてはならぬ。
「……あの歌と、同じ系譜だ。それも、たぶん、ずっと祖先の方の」
「石碑って、いつの時代のものなの?」
「国境の碑としては、五百年もの、と言われてる。でも、この古体の行は————もっと前からあった岩に、国境の文を、後から足したのかもな。……つまり、この一行の方が、先住だ」
五百年より、前。
「ほどくもの」という言葉が、その頃から、あった。
「……観測日誌に、写しを取るわ。拓本も」
拓本作業の間、俺は俺で、石碑に向かって、静かに両手を合わせていた。
「……何やってんの、あんた」
「魂の拓本である。紙に写せるのは文字だけだが、俺の魂には、この石碑の“闇の質感”ごと写し取れる」
「はいはい。写せた?」
「写せた。……ちなみに感想を言うと————この石碑、彫った奴は、泣きながら彫ってる。角の丸まり方が、そういう丸まり方だ」
「「「「…………」」」」
「……たまに、あんたの変な感受性、馬鹿にできないのよね」
「頼む。それと、全員、覚えておけ。この石碑は“警告”じゃない。……“願い”だ。結びて、あれ。誰かが、遠い昔、心底からそう願って、岩に彫ったんだ」
「願い、ね。……誰に向けた願いかしらね」
「さあな。だが、少なくとも、俺たちは願われた通りに生きてる。結びっぱなしの、毛玉のままな」
拓本は、上々の出来だった。沙耶が紙を掲げると、古体の一行が、白地に黒く、くっきりと浮かんでいた。
「これ、帰ったら、大書庫のセヴラン導師と、大司教猊下にも写しを送るわ。————五百年前の“願い”の、現物よ。学術的大発見かもしれないんだから」
「ん。たくほん、いちまい、よぶんに、とっておいて」
「あら、ひなたも欲しいの?」
「おうちの、かべに、はる。————“むすびて、あれ”。……いいことば、だから」
俺たちの家の壁に、五百年前の願いが飾られる日が、決まった。
——石碑の先に、それは、あった。
道の両脇に、二本の黒い石柱。その間に、簡素な木の門。そして、門の前に————小柄な人影が、ひとつ、立っていた。
外套の頭巾から、二本の角が、覗いていた。
「(来たわね。“角の御方”の関)」
「(ああ。……全員、火を掲げよ。正面から、行くぞ)」
ヴィクが、馬車の屋根から、音もなく降りた。
五年ぶりの、故郷の入り口が、目の前にあった。




