第127話 キリノ里の、火
キリノ里は、まだ、空だった。
戸の閉まった家々。物干しの、何もない竿。からから回る風車。冬を越した空の里は、記憶のままの、抜け殻だった。
「……変わらず、か」
「いや————見ろ」
里の中央の広場に、変化が、あった。
雪かきの跡である。広場と、里長の家の前と、井戸の周りだけ、雪が、綺麗にどけられていた。
「誰か、通ってるのね。手入れに」
「ん。……においも、ある。うすいけど。ひとの、におい。それと」
ひなたは、鼻をひくつかせて、里長の家を指した。
「おともの、におい」
里長の家の卓には、あの書き置きが、そのままあった。『ここは、いい里だった』の、あの紙。
そして、その横に————増えていた。
ヴィクが置いた蜂蜜菓子の包み。その隣に、誰かの置いた、干し柿がひとつ。木彫りの小さな鳥がひとつ。野の花を束ねた、枯れかけの一束。
「……供物が、増えてる」
「私たちだけじゃ、なかったのね。ここに寄って、手を合わせてく人が」
「出てった元の住人か、行商か、旅の者か。……誰でもいい。覚えてる奴が、他にもいたんだ」
ヴィクは、旅袋から、新しい蜂蜜菓子を出して、古いのと、そっと取り替えた。
「……約束の、途中経過だ。飯の匂いは、まだ戻せてない。でも」
「ん。きょう、もどす」
ひなたが、おたまを、構えた。
手入れは、飯の前に、ひと通りやった。ブロム棟梁直伝の要領で風車の軸に油を差し(からから、が、するする、に変わった)、井戸の氷を割り、雪の重みで傾いた物干し竿を直した。
「里が息を吹き返した時、道具が死んでたら、二度手間だからな」
「ん。どうぐも、まってる」
——昼。空の里の広場に、あの粥の朝以来の、煙が立った。
九人分の昼飯である。大鍋の煮込み。焼いた黒パン(特売)。湯気と、匂いが、抜け殻の家々の間を、ゆっくりと流れていく。
「里のみんなの分も、作った。……たべる人は、いないけど」
「いや————居るかもしれんぞ」
俺は、視線を、里の外れに向けた。さっきから、家の陰から、こちらを覗く顔が、ちらちらと見え隠れしていたのである。顔が出た一瞬に、一拍、拝見していた。
————状態: 警戒。空腹。特記: 三日、まともに食べていない。
「出てこられよ!!飯が、余っている!!」
物陰から、おずおずと現れたのは、若い行商人だった。痩せた馬と、痩せた荷。北から南へ向かう途中、路銀が尽きかけているという。
「す、すみません……匂いに、釣られて……」
「釣った側なので、正解の行動です。どうぞ」
行商人は、椀を三杯おかわりして、人心地つくと、ぽつぽつと、北の話をしてくれた。
「北は……変ですよ、今。国境の関が、妙に厳しくなってて。人間側がじゃなく————向こう側が、です。夜の民の側が、南から来る者を、選り分けてるって噂で」
「選り分ける?」
「ええ。“通していい者と、駄目な者を、角の御方が関で見てる”って。……俺は商いの筋で通してもらえましたけど、追い返された連中も見ました。理由は、誰にも分からない」
「「「「…………」」」」
「角の、御方」
ヴィクの声が、低くなった。
「その関の場所は」
「峠を越えた先の、石碑のとこです。……あの、行かれるんですか?北に?悪いことは言わない、今の北は————」
行商人は、そこで、俺たちの面子を見回して、諦めた顔をした。
「行くんですね、この人数は」
「察しが良くて助かる」
別れ際、行商人は、思い出したように付け足した。
「そうだ。“角の御方”の人相ですけど……若い女の人だって聞きました。それと、変な噂がもうひとつ。————“関守は、夜になると、南に向かって、鈴を鳴らす”って」
「鈴?」
「ええ。ちりん、ちりんって。誰かを呼んでるみたいに、って……気味悪がってました、みんな」
ヴィクの手が、無意識に、自分の襟元へ動いた。そこには何もない。だが、その仕草の意味を、俺たちはまだ、知らなかった。
——行商人に、路銀と飯を分けて、送り出した。
広場の火を落とす前に、ヴィクは、里長の家の書き置きの横に、一筆、書き足した。
『飯の匂い、一日ぶん、戻した。次は、もっと。通りすがりの、腐れ縁』
「一日ぶん、か」
「ん。やくそくは、こつこつ、はたす」
「……ふ。私たちの流儀だな、それも」
夕方、里を発つ前に、俺たちは、揃って風車に一礼した。誰が言い出したでもない。油を差した風車は、するする回って、見送りの手みたいだった。
「ん。————また、くるね」
約束は、里の帳面(書き置きの横の一筆)と、俺たちの胸の中に、増えていく。
夕方、里を発った。風車の音が、心なしか、来た時より軽く聞こえた。
北の峠と、石碑と、「角の御方」の関が、次の行程である。
ヴィクは、馬車の屋根の定位置で、羅針盤ではなく、ずっと、北の稜線を見ていた。




