第125話 雪解けの朝
出立の朝は、雪解けの匂いがした。
屋根の雪がゆるみ、軒先で水滴が数を数え、大通りの石畳が、冬の間で一番濃い色をしていた。北行き日和、である。
東門の前は、人で埋まっていた。
「すごい人ね……街の半分、来てない?」
「フォルテは、見送りに全力を出す街なんだ」
門前には、馬車が二台。一台は荷。もう一台は交代の仮眠用である。積み荷は、黒パン三十個、樽ひとつ、保存食の箱、装備、写しの束、二針の羅針盤、そして回覧板(全部持っていくと沙耶が決めた。「帰る理由は、多いほどいいの」)。
「よし、点呼!!《腐れ縁》!!」
「「「「「五名、そろってる!!」」」」」
「《酔いどれ猫》!!」
「四名、二日酔いなし!!……今日はね!!」
見送りの声が、次々に飛んだ。
「けいご様ー!!腰、入れて歩くんだよー!!」
「コルン村から来たんですか!?ばあちゃんズ!!」
「嬢ちゃん!!磨き布、ちゃんと使いなさいよー!!」
「つ、使う!!使うから!!」
「観測、任せてください!!毎朝、捺します!!」
「ん。コタ、しんらいしてる」
「ぐすっ……はいっっ!!」
グスタフさんが、正式依頼の書状を、俺に手渡した。
「北部方面調査、依頼主フォルテ支部。……行ってこい、うちの一番出鱈目な連中。北の“気味の悪い”のに、フォルテの流儀を見せてやれ」
「ガハハ、と笑うところですよ、支部長」
「ガハハ!!」
今日のガハハは、無理のない、いいガハハだった。
ヘクトルさんは、腕を組んで、門柱の陰に立っていた。何も言わない。何も言わないが、全員の装備を、上から下まで、二度ずつ検分していた。
「教官。行ってきます」
「……ふん。耳当てを、しろ。もう」
「門を出てからします」
「今しろ!!」
九人、全員が耳当てを装備したのを見届けて、教官は、ようやく頷いた。
——そして、最後に、シリルたち《暁の誓約》が、進み出た。
「圭吾くん。餞別、というか……僕らから、これを」
差し出されたのは、一枚の紙だった。びっしりと、四人分の筆跡で、何かの一覧が書いてある。
「僕らの遠征五年分の、北方の宿と水場と、危ない崖の一覧。……綺麗にまとめようとしたんだけど、途中で喧嘩になってね。四人分の字で、ばらばらで、余白は文句だらけだ。……読みにくいと思う」
「いや」
俺は、その紙を、押し頂いた。
「最高の地図だ。工事中の先輩より」
「はは。その呼び方、気に入ってるんだ、実は」
出発直前、沙耶が、全員に小冊子を配った。題名『北行きのしおり』。行程表、当番表、緊急時の合図、そして最終頁に「旅の心得」が三箇条。
一、はぐれたら、その場で待つ。二、無理は、申告してからする。三、————喧嘩は、移動しながらでもできる。
「三条目、こっちの実情に寄り添いすぎでは?」
「実情に寄り添うのが、良い規則なのよ」
「ん。さんじょうめ、いちばん、たいせつ」
——出発の刻限が、来た。
「総員、乗車!!出るぞ!!」
車輪が、回り始めた。見送りの声が、波になって押し寄せて、だんだん、遠くなっていく。
門をくぐる瞬間、ヴィクが、振り返った。
フォルテの街並み。湯屋の煙突。教会の屋根。ギルドの旗。そして、俺たちの家の、あの屋根。
「……行ってきます、だな。こういう時は」
「ん。せいかい」
「行ってきまーす!!」
九人分の声が、揃って、東門の空に抜けた。
————北へ。
馬車は、雪解けの街道を、走り出した。
門が見えなくなると、馬車の中は、しばらく、静かだった。
騒がしい隊の、珍しい静けさである。誰も泣いてはいない。いないが、全員、フォルテの余韻を、それぞれの窓で、噛んでいた。
沈黙を破ったのは、例によって、腹の音だった。
「ん。……そろそろ、おやつ」
「「「「ふっ」」」」
「よし、おやつだ!!旅の一回目のおやつである!!」
静けさは、おやつと共に終わった。俺たちの旅は、こうでなくては。
御者台の俺の隣で、ヴィクが、羅針盤を覗き込んだ。上流の針は、今日も、ぶれずに北を指している。
「……なあ、圭吾。改めて言うのも、変だけど」
「ん?」
「ついてきてくれて、ありがとう。……この旅の間に、一回だけ、言っておきたかった。今のうちに」
「うむ。受け取った。……ちなみに、あと二回くらい言ってもいいぞ」
「一回だと言っただろ!!」
旅の初日は、上々の騒がしさで、始まった。




