第123話 留守番たちへ
出立の前々日は、家の日、と決めていた。
依頼も、引き継ぎも、訓練もなし。ただ、家の手入れをして、留守番たちに家を渡す日である。
朝から、大掃除が始まった。
「窓は全部、拭く。水回りは磨く。……三か月分の埃を、先払いで落としておくのよ」
「ん。だいどころ、あたしが、やる。……たな、ぜんぶ、ふく」
「地下室は俺の管轄だ。“漆黒の間”を清めておかねば」
「食料庫よ」
「多数決の傷を抉るな」
ヴィクは、自分の部屋を、丁寧に片付けていた。寝台の毛布を畳み、机を拭き、本棚の写しの束を整える。そして、一番下の段の、空の旅袋を、取り出した。
「……久しぶりだな、こいつを使うのは」
「半年ぶり、か」
「ん。……変な感じだ。前は、これひとつが家だった。今は————家から、持っていく袋だ」
旅袋には、写しの束と、講座の教材と、蜂蜜菓子(棚の在庫の三割。経理の許可済み)と、コルン村の木彫り(鼠か鼬かは、いまだ係争中)が詰められた。
「木彫りも持ってくのか」
「ま、守り、みたいなものだ。……わ、悪いか」
「悪くない。むしろ100点だ」
「採点するな」
——昼過ぎ、留守番たちが、家の検分に来た。
ブロム棟梁は屋根と壁と配管を叩いて回り、「三か月、びくともせん!!」と太鼓判を捺し、コタは掃除道具の場所と換気の手順を帳面に書き取り、湯守イタチは家中をひと回りして、最後に暖炉の前を「ここが定位置」とばかりに丸くなった。
「イタチ、お前、留守中ここに住む気か」
「きゅっ」
「番人が二軒目を持つ時代である」
「湯屋と兼任って、出世よね」
検分の締めに、湯守イタチの「寝床設営」が行われた。暖炉の前に、ひなたが古い毛布で丸い寝床を作り、ヴィクが端に小さく「番人」と刺繍した(几帳面)。
「きゅっ!!」
イタチは、即座に入居し、三回転して、収まった。完璧な収まりだった。
「……こいつ、私たちの留守中、ここの主なのよね」
「主というか、家の温度番だな。生き物の気配がある家は、傷まない。棟梁の受け売りだが」
そして、夕方。裏庭の雪の棚の前で、ひなたとコタの、最後の引き継ぎが行われた。
「ここが、ほぞんしょくの、たな。……これが、めろくの、ちょうめん」
「目録、確かに!!」
「……コタ」
「はい!!」
「るすの、あいだ。……ちゃんと、たべなさい。かんそくは、あさごはんのあと。おなかが、すいてると、そらのいろ、さみしくみえるから」
「はい!!」
コタは、犬耳をぴんと立てて、直角のお辞儀をした。俺たちの兵站長の最後の教えは、観測理論として、たぶん、どの教本より正しい。
引き渡しには、家の「取扱説明書」も作った。執筆分担制である。
沙耶の頁: 帳簿と支払いの手順(三頁・完璧)。ひなたの頁: かまどと保存棚(二頁・絵入り)。隼人の頁: 「俺の部屋、入るな」(一行)。ヴィクの頁: 観測機材の手入れ(四頁・図解つき・美しい)。
俺の頁: 地下室の管理について(十一頁)。
「なんであんたの頁が一番厚いのよ!!食料庫でしょ、あそこ!!」
「蝋燭の配置、闇の座標、瞑想用の座布団の角度……引き継ぐべき叡智が多いんだ!!」
「コタが困るから三行にしなさい!!」
検閲の結果、俺の頁は「食料庫。涼しい。芋を置く」の三行になった。文明の敗北である。
——夜。家族会議、ならぬ、家会議が開かれた。
議題は、ひとつ。「帰ってきたら、何をするか」である。
「北から帰ったら、まず、風呂よね」
「ん。それから、かまど、ふたつ、フルかどう」
「俺は、隠し金庫の中身の無事を確認する」
沙耶が、眉を上げた。
「中身、入ってるの?あれ」
「それは帰ってからのお楽しみだ」
「私は————」
ヴィクは、少し考えて、言った。
「……本棚の、続きを埋める。二段目の途中で、止まってるから」
「よし。全員分、記録した」
沙耶が、帳面の新しい頁に、書き付けた。頁の題は『帰宅後にやることリスト』。
「これね、遭難対策なのよ。帰る理由が具体的な隊は、生還率が上がるの。……ヴィク先生の受け売りだけど」
「北の知恵だ。……帰る場所と、帰ってやることがある奴は、吹雪の中で、足が止まらない」
リストは、二十三項目まで増えた。最後の項目は、ひなたの字で『ただいま、って、いう』だった。
それが一番、大事である。
——寝る前、俺は、家の柱に、小さな傷をひとつ、彫った。
出立の日付である。隣には、半年前の、家を買った日の傷。
「……何やってんの、あんた」
「柱の記録だ。家ってのはな、こうやって、傷で育つんだ」
「ふうん。……なら、帰った日も、彫らないとね」
「無論。三か月後の予約だ」
柱の傷は、ふたつ。三つ目の予約を残して、家の日は、暮れた。




