第121話 引き継ぎの、印
出立が近づくと、日々は、引き継ぎの連続になった。
——観測。
「観測長・コタ。以後、フォルテの空は、貴殿の管轄である。……これを」
俺が差し出したのは、木彫りの印章だった。ブロム棟梁の作で、面には「観測」の二文字と、小さなイタチの意匠(棟梁の趣味)。
「これで日誌に、判を捺せ。判のある記録は、公文書だ。ロズリンさんにも、そう通してある」
「い、印章……!俺の……!」
コタは、印章を、両手で、拝むように受け取った。犬耳が、感激で、ぷるぷる震えていた。
「毎朝、捺します!!一日も欠かしません!!」
「ん。コタ、まいあさ、えらい」
「ひなたさんの分まで観測します!!」
引き継ぎ式の余興に、新人三人組が「観測の歌」を披露した。手順を忘れないための、自作の数え歌である。
「ひとーつ、靄の高さは杭三つ〜。ふたーつ、風向き月齢忘れずに〜。みっつ、自信がなけりゃ、そう書けよ〜」
「……最後の一節、私の教えが歌になってる」
「先生の教えは、五番まであります!!」
「ご、五番も!?」
ヴィク先生は、複雑な顔で、しかし最後まで聴いて、「……音程は、及第」と講評した。照れ隠しの採点である。この歌はのちに、フォルテの子供らの間で謎の流行を見せることになる。観測は、歌になった。
——絆外来。
「教本、確かに預かったわ。……と言っても、あたしも北へ行く口だからね。回すのはリタと、うちの残留組。月イチの定期診療、穴は開けさせないわ」
「姉御、頼みます。……あと、これは私見ですが。診療で一番効くのは、処方より」
「分かってる。“ちゃんと聞くこと”でしょ。教本の一頁目に、あんたたちの字で書いてあるわよ」
「なら、安心です」
「それとね。暁の連中が、助手に立候補してきたわよ。“工事中の先輩として”だって。……いい顔になったわよね、あの子たち」
——縁の点検。
こちらは、引き継ぎ不要だった。もう、街の習慣になっている。屋台のおやじが常連の安否を数え、湯屋のおかみが長湯の年寄りに声をかけ、教会の子供らが「点検ごっこ」で家々を回る。
「私たちが始めたことが、私たちの手を離れてる。……いい眺めね」
「ん。まちが、じぶんで、げんきになった」
——そして、家。
「留守中の管理、正式にお願いします。棟梁、コタ、イタチ番人」
「おう!!屋根と壁は任せとけ!!ガッハッハ!!」
「掃除と換気、週二でやります!!」
「きゅっ!!」
問題は、ひとつだけ、あった。
「……で、冷蔵庫の中身なんだけど」
沙耶が、帳面を構えた。
「ひなたの備蓄が、まだこれだけあるの。持っていける量は限られてる。残りの処遇は」
「ん。……コタに、たくす。……ただし」
ひなたは、コタの前に立ち、真剣な目で、条件を言い渡した。
「たべて、いい。くさらせるのは、だめ。たべたら、ちょうめんに、かく。……あと、はちみつのたなは、ヴィクの。てを、つけない」
「は、はい!!命に代えて!!」
「命は代えるな」
俺たちの菓子棚には、いつの間にか、聖域が一段、できていたのである。眷属専用棚。誰が決めたわけでもなく、皆が、そう扱っていた。
ヴィクの口の端が、隠しきれずに、上がっていた。
「……べ、別に、私は、そこまで求めてない、けど」
「顔がにやけてるわよ」
「にやけてない!!」
——夜。リタさんが、台帳の新しい頁を見せてくれた。
『パーティ《腐れ縁》(五名)。長期任務: 北部方面調査(ギルド正式依頼)。期間: 三か月(予定)。同行: 《酔いどれ猫》(四名)。特記: ————』
特記の欄は、まだ、空欄だった。
頁を開く前に、リタさんは、小さな儀式をした。台帳の角を、指で、こん、と二回叩いたのである。
「……何の儀式です?」
「験担ぎです。長期任務の頁を開く時は、こうするんです。“ちゃんと閉じられますように”って。……受付の、古いおまじないで」
「ほう。————では、俺も」
俺も、台帳の角を、こん、こん、と叩いた。続いて、四人と一匹(遊びに来ていたイタチ)も、順番に、こん、こん。
「あはは。六重の験担ぎ、初めて見ました」
「帰ってきたら、ここに、書かせてくださいね。“全員、無事帰還”って。……それだけが、受付の願いです」
「善処します、ではなく」
俺は、台帳に向かって、宣言した。
「確定事項として、予約しておこう。全員で帰る。俺たちの家訓なので」
「ふふ。……はい、予約、承りました」
リタさんは、空欄の隅に、小さく、鉛筆で書き込んだ。『予約済』。
出立まで、あと、わずかである。




