第117話 素の風、ふたたび
「なぜ、濁りを、選ぶのです」
巡礼の声から、にこにこが、消えていた。
「五十年。私は五十年、絆を痛みから救ってきた。感謝も、された。安らかになった方々に。……なのに、あなたがたは。あなたがたと会ってから、私の仕事は、」
白い外套の内から、何かが、滲み始めた。光とも靄ともつかない、白い、圧。
「(……様子が変だぞ。下がれ、全員)」
「(あれ、祝福の構えじゃない。“強行”の構えだ)」
巡礼の両手が、暁の四人に向かって、上がった。
「もう、望まれるのを、待ちません。これは、救済です。あなたがたの濁りを、私が、直接」
「させると思うか!!」
隼人が跳んだ。危険度の急上昇で、加護が全開になったエースの剣が、白い圧を、横から薙ぐ。手応えは、綿を斬るように薄い。刃の通る相手では、ないらしい。それでも、押す力は効く。軌道は、逸れた。
「総員、配置!!暁を下げろ!!」
広間が、戦場に変わった。
姉御と《酔いどれ猫》が暁の四人を壁際へ運び、岩割り兄弟が鍋(死守)ごと後退し、窓の外では“たまたま”遠投訓練中のヘクトルさんの投げ槍が、目印の窓枠を、正確に叩き割った。散歩中の支部長の怒声が、通りから聞こえる。
窓の外からは、援軍の音が続いていた。ヘクトルさんの二本目の槍が別の窓枠を割り、通りからは支部長の「儂の散歩道で何をしとるかァァ!!」という、散歩の声量ではない怒声。制度は動けなくても、散歩は動けるのである。
「ひなた!!」
「ん。えんりょ、なし」
黒パンが、白い圧の中心へ、ゴッ!!と突き刺さる。圧が、初めて、たわんだ。
「ヴィク!!」
「分かってる!!」
紫紺の光が、広間を横切り、白い圧を、焼き払う、はずだった。
圧は、紫紺を、するりと、受け流した。
「無駄です。“ほどきの術”も、“焼き切り”も。私は、淀みではありませんので」
「っ、この、!」
「濁りの皆さま。まず、あなたがたから、整えましょう。とりわけ————そこの、幾何学を捨てた四人と」
巡礼の目が、すっ、と動いた。
「一番、声のうるさい、眼鏡の方から」
白い圧が、鞭のようにしなって、沙耶に、伸びた。
「沙耶ッッ!!」
間に合わない。誰の足でも。俺の声が、届くより早く、
「うるさいのは」
沙耶が、眼鏡を、外した。
「生まれつきなのよッッ!!」
風が、吹いた。
そよ風では、なかった。第三試験の日の、あの風だった。品行方正の鎧が脱げ落ちた、素の沙耶の、正真正銘の暴風。広間の蝋燭が全部消え、白布が舞い上がり、白い圧の鞭が、根本から、千切れ飛んだ。
「「「「!?」」」」
「あーもう!!やってらんないわ!!こちとらね!!三年ぶりの友達の喧嘩を取り戻した記念日なのよ!!空気読みなさいよこの白布ォォ!!」
「(出た————素だ!!)」
「(眼鏡、外れると化けるのよ、この子!!)」
巡礼が、二歩、後ずさった。剥がれた無表情の上に、初めて、まともな驚愕が、乗っていた。
「な————何ですか、その、力は」
巡礼は、まじまじと、沙耶を見た。数える目が、忙しなく、揺れていた。
「祝福でもない。加護の型とも、違う。絆の力とも、別系統。……心の、底の、まさか」
そして、白い巡礼は、掠れた声で、こう言った。
「“整える”前の、原型。……こんな古いものが、まだ、人間に、残って」
出た。
“整える”は、聞き慣れた言葉だ。だが、今のには“前”が付いていた。あいつらの仕事より、古い何かが、ある。
「(圭吾、聞いた!?)」
「(聞いた。“前”だ。あいつらが手を入れる前の形が、この世に、まだ残ってる。……沙耶。お前のあれが、それだぞ)」
巡礼は、千切れた圧を、ゆっくりと、引き戻した。引き戻して、深く、息を、吐いた。
「……取り乱しました。お恥ずかしい。ですが、収穫でした。ええ、大きな」
にこにこが、顔の上に、再装着されていく。それが、圧よりも、よほど、怖かった。
「本日は、引きましょう。……ああ、それと、眼鏡のお嬢さん」
巡礼は、戸口で、振り向いた。
「その“素”————大事に、なさい。私どもの好物ですので」
白い外套は、雪の夜に、溶けて消えた。
広間には、消えた蝋燭と、舞い散った白布と、荒い息の沙耶と、湯気を立て続ける、無事な鍋が、残された。
後始末の最初の仕事は、消えた蝋燭の点け直しだった。
言い出したのは、シリルである。
「全部消えたなら————全部、点け直そう。僕らの儀は、まだ終わってないんだ」
十数本の蝋燭に、ひとりずつ、火が戻っていく。暗かった広間が、ひと灯りずつ、生き返っていく。
「(……なるほど。闇ってのは、点け直すためにあるのか)」
十数本の灯りが戻りきるまで、俺は、黙って見ていた。
「……ね、ねえ。私、今、素が出てたわよね。皆の前で。おもいっきり」
「出てた」
「半年ぶり、二度目です」
「ちなみに沙耶よ。素の間の発言、議事録に取ってある。“こちとらね!!三年ぶりの友達の——”」
「読み上げるなァァ!!燃やして!!その議事録、今すぐ!!」
「歴史的資料なので却下」
「〜〜〜〜っっ、忘れて!!全員、今すぐ!!」
「無理だな。最高だったぞ、素の沙耶」
戦いは、終わった。だが、白状すると、俺の頭の中は、敵の最後の言葉で、いっぱいだった。
“整える”前の、原型。私どもの、好物。
————本性の力。あれは一体、何なのだ。




