第116話 誓いを、汚せ
「僕、は、」
シリルの言葉は、そこで、止まっていた。
望まない、と言おうとする口と、その奥で抵抗する何かが、綺麗な顔の上で、綱引きをしていた。
巡礼が、静かに、両手を上げた。
「シリルさま。迷いは、水面の濁りです。さあ、句を。『何も、望まない』と。……そうすれば、もう二度と、痛まない」
「痛まない……」
「ええ、ええ。喧嘩も、擦れ違いも、失う怖さも、全部。……綺麗な、まっしろな、安らかな絆に」
シリルの目が、とろりと、揺れた。あの白い部屋の夢の色だった。
その時である。
「ミア!!出番よ!!」
参列席から、沙耶が叫んだ。白い静寂を、真っ二つに割る声だった。
「昨日の約束!!処方箋、本人の前で、飲みなさい!!」
ミアの肩が、跳ねた。跳ねて、震えて————弾けた。
「シリル!!」
ミアが、叫んだ。正座を崩し、祭壇の作法を破って。
「私、白状する!!あんたの淹れる茶、実はずっと薄いと思ってた!!三年間!!言えなかった!!正しくない気がして!!」
「「「「!?」」」」
「あと、遠征の荷の詰め方、几帳面すぎて取り出しにくい!!戦闘の指示は的確だけど長い!!それから、それから、寝癖!!あんたの寝癖、私も、ちょっと、いいなって思ってた!!」
広間が、凍った。
巡礼の、にこにこが、止まった。
「……ミアさま。それは、水面を、濁す言葉です」
「濁して何が悪いの!!」
ミアは、涙目で、真っ向から言い放った。
「沙耶さんの問診で、分かったの。私が、あの白い夢を見なかった夜は————シリルに、三年ぶりに言い返した、あの夜だけ!!」
盾役の大男が、のそりと、立ち上がった。
「……なら、俺も白状する。リーダー。あんたが毎回、俺の盾の傷を“勲章だね”って褒めるの、あれ、実は、ちょっと恥ずかしい。やめてほしい。でも、やめてほしくない。どっちだ。分からん。……分からんが、言った。三年分、言ったぞ、俺は」
「わ、私も!!」斥候が続いた。「盾のあなたのいびき、テントで、うるさい!!でも、聞こえないと、眠れない体になった!!責任を取ってほしい!!」
「なんだそれは!!」
「文句です!!本気の!!」
暴露は、連鎖した。
勢いのまま、斥候が、続けた。
「つ、ついでに言う!!私は方向音痴だ!!斥候なのに!!遠征でいつも合ってたのは、勘じゃなくて、事前に道を三回下見してたからだ!!」
「知ってた!!」
「「「え!?」」」
「みんな知ってたよ!?君が夜中にこっそり下見に行くの!!ついていったこともある!!」
「言ってよ!!三年間、必死に隠してたのに!!」
白い広間に、三年分の「雑音」が、堰を切って溢れ出した。綺麗に畳まれていた不満と、不満の形をした情が、ぐしゃぐしゃに、飛び交った。
「(始まったわね……!)」
「(ああ。メスは、こっちで入れた。あとは————血が、巡るかどうかだ)」
俺の眼には、追えていた。怒鳴り声のたびに、四人の特記が、書き換わっていく。絆・整流中。絆・乱れ。絆・再結中。————冷えた表示が、一枚ずつ、熱を取り戻していく。
暴露の応酬の間、俺は、巡礼から目を離さなかった。
にこにこは、消えていた。代わりに浮かんでいたのは、驚きでも怒りでもなく————困惑だった。手品の種を全部知っているはずの手品師が、観客の袖から知らない鳩が出てきたのを見た時の、あの顔である。
「(効いてる。……奴の“手順”に、ない事態なんだ、これは)」
「皆さま!!お静かに!!誓いの場です!!」
巡礼の声に、初めて、力がこもった。
「その濁りが、痛みの元なのです!!私は、皆さまを痛みから、」
「————『互いを疑わず、役割を守り、背中を預ける』」
割って入ったのは、俺の声である。懐から出した写しを、ゆっくり、読み上げた。五年前の、結成の日の誓句である。
「シリル。あんたたちの最初の誓いには、“互い”がいた。今度の句には、誰も、いない。……最後の質問だ。あんたは、“何も望まない”と誓うのか。それとも————誰かと、誓うのか」
シリルの目が、ゆっくりと、瞬きをした。とろりとした白が、一枚、剥がれ落ちた。
「……巡礼さん」
静かな声だった。いつの間にか、目の色が、戻っていた。とろりとした白ではなく、擦り傷だらけの、人間の目の色に。
「ありがとう。あなたは、たぶん、本当に、僕らを痛みから守ろうとしてくれた。それは、分かるんだ」
「シリルさま。では、」
「でも、断る」
綺麗な顔が、綺麗じゃない、不格好な笑い方をした。
「圭吾くんの、質問の答えだ。僕は————誰かと、誓う。こいつらの文句を聞いて、思い出したんだ。僕は、痛くない絆が欲しくて誓ったんじゃない。こいつらと、いたくて、誓ったんだ。順番を、間違えるところだった」
シリルは、祭壇の「新しい句」の紙を、手に取った。
『何も、望まない』
そして、その場で、真っ二つに、破いた。
「僕は、望む。茶の濃さで揉めることを。荷物の詰め方で喧嘩することを。寝癖を笑われることを。……全部、望む!!それが、僕の、新しい誓いだ!!」
「「「シリル(リーダー)!!」」」
四人が、祭壇の前で、ぐしゃりと、抱き合った。作法も、隊列も、正座も、何もかも崩れた、汚い塊だった。
俺の眼が、視た。
————《暁の誓約》。特記: 絆・再結中。
あの綺麗すぎた「整流中」の文字は、もう、どこにもなかった。
「……ふ。ようこそ、工事中の世界へ」
そして。
広間の中央で、白い巡礼だけが、立ち尽くしていた。
にこにこが、剥がれ落ちた顔で。破られた紙切れを、見つめて。
「なぜ」
低い、初めて聞く声色が、漏れた。
「なぜ、濁りを————選ぶのです」
白い夜は、まだ、終わっていなかった。




