第112話 汚い絆の講習会
夜半、我が家の戸が、控えめに叩かれた。
戸口に立っていたのは、雪をかぶった金髪だった。シリルである。供も連れず、一人で。
「……夜分にすまない。その、眠れなくてね」
「どうぞ。ちょうど、夜食の芋が焼けたところで」
広間に通すと、シリルは、黒板の前で足を止めた。ヴィク先生の幾何学模様と、その隣の、ぐしゃぐしゃの毛玉の絵を、長いこと、見比べていた。
「……これ、絆の図、だよね。綺麗なほうが、僕らだ」
「ええ」
「で、こっちの、その……すごいほうが、君たちの」
「すごいほう、という表現は初めてもらったな」
シリルは、笑わなかった。笑わずに、毛玉の絵に、指で触れた。
「圭吾くん。単刀直入に言う。汚い絆を、教えてくれ」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
「……迷宮の時から、ずっと考えてたんだ。君たちの、あの汚い連携。罵り合いながら、誰も見捨てない、あれ。綺麗じゃないのに、強い。綺麗じゃないから、強い。……あの時は“いつか知りたい”で済ませた。でも今は、その」
シリルの手が、握られた。
「一昨日の朝、ボルグが転んだ。隼人くんが“どけ”と言って、割り込んだ。……その帰り道に、君と話したろう。あれから二日、そのことばかり考えてる」
「今、知らないと、僕らは、何か大事なものを、綺麗に片付けてしまう気がするんだ」
俺は、芋を二つに割って、片方を渡した。
「講習料は、この芋の付き合いだ。座られよ、シリル。……本来、光の側の男に漆黒の流儀を明かすのは、我が主義に反するのだがな。患者とあらば、仕方あるまい。————≪漆黒の医院・夜間講習≫、開講である」
——かくして、深夜の講習会である。
「第一講。“汚い絆”とは何か。……と言いたいところだが、まず前提を壊す。シリル、あんたの言う“綺麗”と“汚い”の定義から捨てろ」
「定義から?」
「あんたは今、こう思ってる。綺麗=正しい、汚い=間違い。……違う。俺たちの定義ではな、こうだ」
黒板に、書いた。
『綺麗な絆=完成を目指す絆。汚い絆=完成を諦めた絆』
「……完成を、諦めた」
「そうだ。俺たちはな、互いを完璧に理解することも、喧嘩をなくすことも、役割を綺麗に分けることも、十年前に全部諦めた。こいつらは直らん。俺も直らん。じゃあどうするか。直さないまま、続ける。それだけだ」
「直さないまま……で、成り立つのかい、それで」
「成り立たん」
「え」
「成り立たんから、毎日、繕うんだ。朝の口喧嘩で昨日の帳尻を合わせ、飯の取り合いで距離を測り直し、悪口で調子を確かめる。……俺たちの絆は完成品じゃない。永遠に工事中だ。工事中だから————毎日、触るんだよ。触ってるから、切れんのだ」
シリルは、芋を持ったまま、長いこと黙った。
「……僕らは、逆だ。完成に近づくほど、触らなくなった。触る必要が、なくなっていった。……それが、成長だと思ってた」
「成長だとも。立派な成長だ。……ただな、シリル。完成した橋は美しいが、誰も点検しなくなった橋から、落ちる」
「「…………」」
「参考までに、実演を見せよう。————沙耶!!起きてるか!!」
階段の上から、寝間着の経理が降りてきた(盗み聞きしていたので、起きている)。
「はいはい。実演ね。————ちょっと、あんた、また夜中に客に芋出してるの!?茶葉はどうしたのよ!!」
「芋は万能なんだよ!!茶葉は経費で切られただろうが!!」
「切ったのは予算会議!!あんたの燭台の蝋の方が高いのよ!!」
「浪漫の必要経費だが!?」
三分間の応酬ののち、俺たちは、けろりと締めた。
「————とまあ、こういうのを、週に二十回ほど」
「二十回!?」
「で、見ての通り、切れてない。むしろ茶葉の予算が来月から復活した(今の応酬で交渉が成立した)。……これが“工事”だ」
シリルは、懐から手帳を出して、猛然と書き取り始めた。几帳面な字で『喧嘩は、交渉と点検を兼ねる』。
「……メモを綺麗に取るところから、直した方がいいのかな、僕は」
「いや、そこはあんたの持ち味だ。汚れるのは、中身だけでいい」
「第一講は、以上。宿題を出す」
「宿題?」
「明日、ミアに、文句をひとつ言え。内容はなんでもいい。“茶が濃い”でもいい。ただし、本気のやつだ。礼儀で薄めるな」
シリルは、宿題を、三回、復唱した。真面目な男である。真面目さが、こういう時は、痛々しい。
講習の締めに、シリルは、芋のおかわりをした。
「……おかわりって、してもいいものなんだね。よその家で」
「いいに決まってる。我が家では、おかわりは、飯への最高の講評である」
「ん。おかわりは、あいさつ」
「じゃあ、遠慮なく。————もう一個」
名門B級のリーダーは、夜中の台所で、芋を三個食って帰った。三個目を齧る顔は、遠征の英雄ではなく、ただの腹の減った男の顔で、それがたぶん、今夜一番の収穫だった。
——帰り際、戸口で、シリルが振り向いた。
「あのさ。最後に、ひとつ。……君たちのあの毛玉、僕には、まだ綺麗に見えないんだ。正直に言うと」
「だろうな」
「でも————温かそうには、見えた。……それだけ、言っておきたくて」
雪の夜道を帰っていく背中は、来た時より、少しだけ、人間の歩幅だった。
「(……聞いてたか、お前ら)」
階段の上から、四つの気配が、ぞろぞろ降りてきた。盗み聞きである。全員。いつも通り。
「(温かそう、だって)」
「(ん。あったかいよ、あたしたち)」
「(なら、勝ち目はある。……温度はな、正しさより、伝染るんだ)」
儀まで、あと三日。宿題の結果は、明日、分かる。




