第79話 五木碧の懊悩
人はなぜ願いを胸に抱くのだろう。
それは欲望があるからだ。それは後悔があるからだ。それは恋慕があるからだ。それは不満があるからだ。それは恐れがあるからだ。それは絶望があるからだ。
——それは、救いたい人がいるからだ。
五木碧は悩んでいた。何も考えていないように見られることも多い彼女だが、そうはいっても悩み多き年頃であり、現役バリバリの悩める乙女なのであった。
悩みとは物欲のようなものだ。一つが解消すると次に控えていたものが肥大化し、今度はそれに焦点が当たる。
八神香との関係性において、碧の懸念は先日晴れて解消された。しばらくはハッピーな気持ちに浸っていた彼女だったが、早くも次なる悩みが台頭してきている。
それは、止まることを知らない八神の暴力性について。
碧自身が手を上げられることは少ないし、それは自分が許せば済む話だからまだいいとしても、第三者への暴行は見ていて気持ちのいいものではない。
初めのうちは彼に合わせて笑っていた。だが、それが辛くなってきた。最近の小野に対する加虐はエスカレートしているようにも感じられ、このままでは取り返しのつかない事態に発展してもおかしくない。
それで、碧は熟考している。なにしろ叶う願いは一度きりだ。
(もう、香ちゃんに暴力を振るわないでほしい。そう願えばいいのかな……?)
今のやっぱなし、が通じないとなると、やはり躊躇する。それに——
それで救えるのは、未来だけだ。
彼がこれまで働いた暴力はなかったことにはできない。当たり前といえば当たり前。過去は過去であり、かつて事実として在ったものであり、記憶であり、歴史である。
それをどうこうできるとしたら、それこそ神や超常の領分だろう。そう、例えば昨日拾った鏡のような——
「あ————」
そうだ。一晩を経て碧の願いが決まる。
これなら全員を助けられる。
(香ちゃんも、香ちゃんに殴られた人も)
不本意ながら、小野の顔が浮かんでは消える。
(でも、一番救われるのは私自身かもしれないけど)
碧は机に置かれている鏡に手を伸ばす。
「お待たせ、鏡さま。私の願いを言うからよく聞いてね。いい? あ、よく聞いてってのは願いじゃないよ。分かってるよね?
——じゃあ言います」
息を少々整えて、
「香ちゃん……八神香の中に生まれる暴力的な衝動を全部、もうずっと一生分、過去も現在も未来も全部です、お願い、まるごと消し去って……!」
思わず鏡を抱きしめながら強く願う。想いが溢れ出てまとまらなかったが、大事なところは伝えられた。と、思う。
——さて。一方で鏡は黙している。そなたの望みは叶えられた——なんてアナウンスも聞こえてこない。だけど——
一瞬、意識が遠のいた。目眩のような、立ちくらみのような。
……何かがおかしい。どうやら記憶に混濁がある。——そして、碧は気付く。
体験した記憶と、体験していない記憶がある。それらは部分的に並列に存在しており、どちらが正しくどちらが間違っていると言えるものでもない。例えるなら表と裏。AパートとBパートとでもいうような。
(——ああ、そうか)
殴られた記憶と、殴られていない記憶。彼が殴っている記憶と、彼が殴っていない記憶。誰かが殴られている記憶と、誰も殴られていない記憶。——碧はそれらに気付いた。
(そうなんだ。これは——)
碧が実際に体験したものの既に事実ではなくなってしまった記憶と、碧の願いが叶えられたことによって事実が書き換えられ、これからは実際にあったものとなる記憶——。
だが、その状態も長くは続かない。事実でなくなった記憶は、徐々に忘れられていく。それはいいことなのか、悪いことなのか。
(——いや、これでいいんだ。香ちゃんは生まれ変わる。暴力に支配されない香ちゃんに。私も生まれ変わる。今度こそ、暴力を受け入れない私に——)
少しだけ、不安があった。
記憶が、事実が変わっても。それでも、自分を——
(私を、好きになってくれてるかな?)
いよいよ、もはや事実でなくなった記憶に霞がかかる。不安が膨らんでいき、強くあろうとした心が押し潰されそうになる。
でも、信じている。それは彼の暴力性の有無には左右されない部分だと。2人の出会いも、一緒に過ごした時間も。
(そうだ、最近の記憶では——
——よかった、これなら大丈夫。ちゃんと彼女だって、そう言われてる……!)
直近の記憶に歪みは感じられない。
碧は安堵に胸を撫で下ろし、次の瞬間、彼の暴力に纏わる記憶は彼女から——人々から、消えた。




