第74話 たったひとつのできること
彼女だったら彼氏の心配をすべきなのかもしれないが、花音から聞いた情報では、皇は明らかに白尾を待っていた。もし皇に何かあったなら、その場合の加害者は白尾が最有力となる。だけど、待ち伏せしておいて返り討ちに遭ってしまうって——。
(そんなことある? あの皇くんが——)
自分は皇を過大評価しているのかもしれない。ここまでの判断が正しいという確証もない。でも、その答えはもう少しで分かる。
巴は車窓に目を向ける。滔々と流れる景色を見ながら、心を落ち着かせようとしている。
西武立川駅。西武拝島線で、拝島駅から一駅。白尾の自宅マンションの最寄駅である。以前、友人の芽瑠が白尾本人から聞き出したから知っている。
——あの時、夏の暑さに浮かれて大胆になってしまった彼女を止めておいて本当によかった。あのまま行かせてしまっていたら、爽やかイケメンの皮を被ったクソザコ変質者に泣かされていたかもしれないんだから。
電車で高校の最寄駅である東中神駅から西武立川駅へ行くには、拝島駅を経由しJRから私鉄へ乗り換えなければならない。路線図で見ると<の形に迂回するようなルートなので、タクシーで直行すればショートカットになる。
(間に合え——)
祈ることしかできず、気が急く。信号に引っかかる度に自分の運の悪さを呪いたくなる。
(お願いお願いお願い——)
それだけを繰り返し念じる中で、ワイパーがフロントガラスを擦る音やウインカーの音がやけに大きく聞こえた。
「雨、やみましたね」
巴の胸中とは対照的な落ち着きのある声。水滴の弾幕が張られた窓ガラスの向こう側では、道行く人たちが傘を畳んでいる。
まもなく車は西武立川駅の南口に到着した。ついさっきまで雨が降っていたためかロータリーには一般車両がちらほらいたが、それらの間を縫うように進み、滑らかに停車する。
「ここでいいですか?」
「はい! ありがとうございます!」
巴は会計を済ませ、転がり落ちるように車外に飛び出す。そして、注意深く辺りを見回した。
(間に合った……?)
——いや。まって。そこで焦燥感が襲いかかる。
(やばい。先回りできたのかどうか、分からない……!)
認めざるを得ない。慌てすぎていて、急ぐことばかりに集中していて、次のアクションにまで考えが及んでいなかった。皇は駅を後にしたのか? まだか? ここで待つ?
(どうしよう——)
サ——と血の気が引いていく。身体から魂が抜けかけたが、運転手の声で現世に還った。
「お嬢さん、忘れ物」
お気に入りの傘を後部座席に置き去りにしていた。
「あっ。すみません——」
上半身だけ車内に戻って傘を手にしながら、巴は懸命に心を落ち着かせ、状況の整理を試みる。
そもそも、もし、すでに皇が駅を発っていたら——
(うっ、それだと詰んでる——?)
なんてことだ。白尾のマンションへの道までは知らない。芽留は駅前のコンビニでコンドームを買い、直後に怖気付いたから、ここまでしか巴たちは一緒に来ていない。
というか、すでに皇と白尾が接触していないとも限らない。
(いやいや、人が多い場所ではふつう揉め事とか避ける、よね……?
——って、今はふつうじゃないかも? ああもう、どうしよう)
動揺。困惑。思っていたより危機的状況に陥っていることを自覚する。
ともあれ、実際には選択肢はなかった。巴はそれに気付いた。
(——待つ。それしかない)
他にできることはない。だから、待つ。
そうと決めたら、駅から出てくる皇を見逃すわけにはいかない。巴は駅構内へと続くエスカレーターに乗り、改札付近まで移動した。
もう迷う必要がなくなり、少しだけ心に余裕が生まれている。肝が据わった、とでも言うべきか。そんな巴の自己分析を嘲笑うかのように、いきなり雷鳴が轟いた。
(し、——)
否。それは真実ではない。雷など落ちてはいない。それだけの衝撃を受けたというだけだ。
巴は顔を背け、固まった。前髪で視界が翳る。
分かっていたはずなのに。当然に予期していたはずなのに。
その男。白尾爽悟。人波に紛れ、悠然と改札の向こう側から現れた、彼の姿が意識を覆う。
世界が色を失う。身体が痙攣する。視野全域が明滅する。
見当識は剥奪され、呪いの記憶が蘇る。
巴は呼吸すら忘れ、立ち尽くす——。




