第70話 交渉人・二宮皇
いつも通りの帰り道。特に寄る場所もなく自宅に帰る……はずだった。
最寄駅の西武立川駅から徒歩5分。そんな不動産サイトの情報よりも実際には3分ほど余計にかかる賃貸マンションに向かう最後の小道で、思いがけず名を呼ばれた。
「白尾!」
心なしか怒気を孕んだような声。
声の主に心当たりはなかったが、振り返ると少年がいた。
「——ああ、昨日の」
キャップを被りYシャツ姿だったが、童顔と背格好ですぐに分かった。
「今度は俺のストーキングか? やめてくれよ。お前にできることはないって」
気付けば雨は止んでおり、傘を畳みながら問う。
「まさか忠告を忘れたわけじゃないだろう?」
「——交渉に来たんだ」
少年の声は思いの外落ち着いていた。
「へぇ」
何を言い出すかと思えば。——交渉? 子供が? 大人相手に?
白尾は失笑し、その口元を歪める。
「聞くだけ聞いてあげよう」
少年は白尾の返事を待たず、持っていたカバンから厚みのある封筒を取り出していた。
「50万ある」
——ああ、なるほど。データを買い取るということか。だが——。
「これでバックアップも含めて全てのデータを消去してほしい」
——そんなもの、証明できない。やはり阿呆か。カネだけもらって消したふりをすることもできるが——いや、まだだ。
「なあ、三船ってめちゃくちゃ美少女だよな」
白尾は腕に通した鞄に傘を預け、懐からタバコを出して咥える。
「——え?」
ライターで火をつけ、紫煙をくゆらせて言った。
「どっちが大事かって話だ。そう簡単には渡せない。あれはこっちの交渉にも使うんだ」
それは事実だ。白尾の戦利品であり、彼女の弱み。
「もっといろいろしてもらう予定だし……。だって、まだ咥えさせてもないんだぜ?」
「——————」
数秒の沈黙。少年の次の言葉に、タバコを吸う白尾の手が止まった。
「————100万なら?」
「は?」
少年はカバンから二つ目の封筒を取り出した。最初のものと同じ厚みがある。
「おいおい、そんな冗談——」
「嘘だと思うなら、確かめてみればいい」
——なんだ、こいつボンボンなのか? 昨日の今日でポンと100万出すなんて、にわかには信じがたい。だが、もし本当なら……?
(そんなの全額もらってデータ消したことにするしかないだろう——!)
白尾はおびき寄せられるように少年に近付いた。
「確認するぞ」
言いながら、封筒に手を伸ばす。そして——
一瞬で、意識を刈り取られた。




