第62話 贈る言葉
彼は落胆した。なんであんなことを願ってしまったんだろう。馬鹿馬鹿しい。どうしてあんな——
——ありがとうと伝えたい、なんて。
思い出す。頭の中に響いた声は一度きりで、手の中の鏡が語りかけてくる気もしない。嘘のような静寂。当然か。鏡が口を聞くわけはないのだから。
気づいたらまた歩き出していた。足取りは異様に軽い。おそらく目的地があり、そこへ向かっているのだろう。自分のことなのに他人のように感じる。手に持っていた鏡は失われていた。どこかに置いてきたのか。
しばらく歩くと、見覚えのある場所へ出た。
(ここは——)
公園、だ。おかしい。自宅からは二駅ほど離れている。知らぬ間にここまで徒歩で——? いや、電車に乗った記憶が微かにある。思い出す。しかし分からない。なぜ、自分はここへ来たのか?
(————あ)
やばい。動悸が激しくなる。それは暴行を受けた記憶からではない。もっと強烈な感情が呼び覚まされて——
(三船……?)
公園の入り口付近に佇む少女の姿を見つける。いつ見ても、遠目に見ても美しさに息を呑む。自分なんかが近づくのが憚られる。そして彼女の手には——
——鏡が。やはり見覚えのある、鏡が、あった。
「三船……!」
彼女は小野が近寄るまで気付かなかった。こんな夜に不用心だなと心配になるが、小野には今はそれよりも言いたいことがある。
「……その、この前。ハンカチ……ありがと……」
きょとんとした顔で見つめられる。こんなの好きになってしまう——あ。
(三船、泣いて……?)
気恥ずかしくて直視できなかったが、よくよく見れば綺麗な瞳が潤んでいる。
(いったい、何が——)
狼狽する小野を前にして、ふふ、と。わずかに一瞬、彼女の表情が和らいだ。
「あれはハンドタオルだよ」
「————」
微笑み。文字通り本当に微かな笑みだったが、小野は自分の顔がにわかに上気していくのを感じた。そして——次の刹那。
世界は唐突に終焉を迎えた。




