第58話 Ti Amo
フタが開いたまま受け取った炭酸飲料はよくある柑橘系のフレーバーで、おそらく碧が過去に飲んだことがあるものだった。もちろん今それはどっちでもよくて、そんなことよりあっさり一口くれたことが持つ意味が大きくないか。少なくとも嫌悪感は抱かれていないということだ。
「どうだった? 味の方は」
感想を求められたので、ややぶりっこ気味に上目遣いで答える。
「——私も好き」
割とかわいい声も出せた。だけど、そんなには効かないか。
「それはよかった」
彼はペットボトルを返してもらうとフタをして、コンビニのレジ袋にしまった。
あれ、このまま捨てるとかないよね? 失敗した? 飲みかけあげるのはよくても逆はダメ? 碧は少し焦る。
「ねえ、名前なんていうの」
「え? み、碧」
「碧ちゃん。どっか行こうよ」
不意に白い歯を見せ、彼は屈託なく笑う。
釣れた〜! 碧は心の中で二度三度、ガッツポーズを繰り返す。
「そっちも名前教えてよ〜」
「ああ。俺は八神」
「——下の名前は?」
「カオル。香さまって呼んでいいよ」
「香さま〜❤️」
「ノリいいね笑」
「まーね! どこ行く〜?」
「この時間だとゲーセンとか? あんまお金ないけど」
「私ちょっと持ってるよー」
「お、助かる……って、ほんとにちょっとだったらキレるけど」
「キレないで❤️」
「——碧ちゃん、ぶりっ子って言われない?」
「ひどーい。あ、こういうの嫌いだった?」
「うーん……? まあ、新鮮……かな?」
「もすこし奥ゆかしい女にもなれるよ」
「それは嘘でしょ」
この日はハグだけだったが、それから何度か遊ぶ仲になり、ほどなく体の関係ももった。碧は彼女になれたんじゃないかと思っているが、明言されたわけではないので不安はある。
——そして、その心理を八神は知っていた。
碧は利用価値が高い。いつでもヤらせてくれるというだけで今は手放せない。顔もまあまあ可愛いといえるレベルだし、身体は肉付きがいいのに太っていない。あの眠たげな声もクセになる。そして何より言うことをよく聞く。このまま絶妙な関係を維持していたい。
あまり愛を囁いて強く依存させると後が大変だから。
以前はそれで失敗した。別れると告げて拒絶を続けたら自殺未遂を起こされた。もうほんと女ってめんどくせえ。やっぱ付かず離れずがベストだな——齢十六にして八神は自分なりの結論を出していた。
だから——彼は碧の不安を利用する。その方が切りたい時に都合がいいし、隷属させるのにも便利だからだ。
でも、意外だった。恐れていたことではない。八神は見誤っていた。ついにというか、その日が訪れたのである。
「香ちゃん。私って……香ちゃんの彼女なんだよね?」
意を決した表情。いや誤算だった。碧がここまで——そんなことを気にするほど思い悩んでいたとは。
碧の家は比較的裕福そうに見えた。一戸建てで立派な門扉があり、部屋数も多く、碧の自室も十分な広さがある。小遣いにも困っているところを見たことがない。——恵まれた側の人間だ。
さて、どうするか。彼女の部屋で2人きり。ベッドに押し倒せばうやむやにできるかもしれないが、すでに一度問いただされているので回答の先送りでしかない。ここで切るのは惜しいが、彼女と認めてしまうのも面倒くさいことになりそうで——。
「香ちゃん……?」
すがるように手を握られる。どうやら退路はないらしい。
(くそ、どうする……?)
——いや。大丈夫か。落ち着こう。
今捨てるのも、後に壊れてしまうのも同じことじゃないか。失うことに変わりはない。
それなら何を恐れる必要がある?
「まったく……。何言ってんの」
それならすぐに別れる必要はない。
「彼女に決まってる。当然でしょ」
優しく抱きしめると、強く抱きしめ返された。
「香ちゃん! よかった〜!」
「なに、どうしたの」
泣いてしまった碧の頭を撫で、その口元にそっと口付ける。
「ごめん、不安にさせて」
碧の目尻に溜まっていた涙の粒を自分の人差し指へと移し、八神は一息吐いた。
(——これでいい。どうせ長くは続かない関係なんだ。今は、これで)
2人の心が交わることはないだろう。それでも身体だけなら交われる。慰め合える。それでよかった。まったく理に適っている。
温もりを感じていたい碧と、欲情の処理ルートを維持したい八神。歪ながらバランスのとれた関係は今なお成立しており、機能していた。




