第55話 帰り道は空回りしたくなる
どれくらいの時が流れただろう。一瞬だったかもしれないし、永遠だったかもしれない。
いつまでもここに居てもしょうがないし、帰ろうか、と誰かが言った。
そうですね、と誰かが言う。
端から見れば、2人は心を持たない人形のようだった。
わたし、ばかだった、と誰かが言った。
先輩は馬鹿じゃないです、と誰かが言う。
「このまま××××しちゃおうか——」
甘美な誘惑。壊れていく。世界が。自分が。先輩が。
「——なんてね」
皇には何も聞こえなかった。巴は見かけ上はいつもと変わりなく、屈託なく笑った。
クソみたいな現実。抜けるような青空。虚構のような笑顔。美しい貌——。
そのどれもに現実味がない。白昼夢のようだ。そうだ。夢ならよかった。夢なら。
通った道も、電車に乗った記憶すら定かではないが、気が付けば巴の自宅前まで来ていた。ローファーを履いた足が止まり、皇もそれに倣う。
「ありがとう。一緒にいてくれて。もう大丈夫だから」
彼女の声は穏やかだった。だからといって、なんと返していいのか皇には分からない。できるだけ自然に笑みを作った。
「さよなら」
やはり穏やかな声でそう告げて、巴は背中を向けた。
「————先輩!」
立ち止まってくれたが、振り向いてはくれない。
「また、明日……」
それだけだ。皇が言えたのは。呼び止めておきながら、そんな言葉しかかけられない自分に苛立たしさが募る。おそらく今、自分は泣きそうな顔をしているのだろう。情けない。泣きたいのは先輩のほうだろうに——。
巴は振り返らない。皇の表情を知ってか知らずか、皇の顔を見ようとはしない。
「明日、か……」
静かな声だった。違和を感じるほど、その声は凪のように落ち着いている。
どうして——。どうして、先輩はそんなに強いんですか——?
皇は自分の力不足を痛感する。辛い時こそ、その感情をぶつけてほしい。独りで抱え込まないでほしい。そんな願いは、無傷の人間のエゴなんだろうか。もっと力になりたい。気持ちを全部吐き出してほしい。それがたとえ醜いものでも、全部、まるごと。
これは相手を思いやるようでいて、その実“自分本位”な考え方でもあるけれど——独りよがりで、我儘で、身勝手極まりないかもしれないけれど——。
だけど、たぶん、きっと。
相手を想う気持ちがあるからこそ、そう思ってしまうんだ——なんて、言い訳したい自分もいる。
「どう思います? 先輩」
「まあ、あながち間違ってはないんじゃないかな?」
「え?」
「え?」
「もしかして、心を読みました?」
「ちょっとだけね」
「急にエスパー能力を開花させないでくださいよ」
「でも、そういう気持ちは分かるとしても、さすがに全部は恥ずかしいよ」
「ちょ、僕の心は丸裸なのに⁉︎」
「うそうそ。心読んでないから。顔に出てたの」
「な……。それで分かったんですか?」
「あと声にも出てた」
「それだー!」
「こんなやりとり前にもあったねえ」
皇は大袈裟に頭を抱えている。全部晒け出してほしいなんて恐ろしく図々しいことを言ってしまった。動揺し慌てる皇を見て、巴が微笑んだ気がした。
「あーあ。なんかもうどうでもよくなってきちゃったなあ」
柔らかな声で不穏なセリフが奏でられる。
「え?」
「皇くんは——」
巴がまっすぐ見据えてきた。その瞳に皇は魅入るほかない。彼女は参考までに、とでもいうような気軽さで問いかけた。
「皇くんは——何がしたいのかな?」
「——僕が、したいこと……?」
「そう。私と付き合って——それで、何かしたいことはあるの?」
どことなく蠱惑的な雰囲気だった。忘れていた——。いや、忘れていないが、巴は息を呑むほど可憐な女性なのだった。その目も。唇も。表情も。声も。ずっと、超絶に、無限に可愛くて——ああ、ダメだ。だめです。かわいすぎる。
「僕は——」
「僕は、先輩が好きです」
幾度となく繰り返された告白。
今は遠い日常。
「知ってる」
巴はやっぱり呆れたように笑って——
「答えになってないよ。ばか」
——ほんと、ばかね。そう、彼女の唇が動いて。
——あれ、なんでだろう。今、確かに笑ったような——そんなふうに見えたのに。
巴は淡々と背を向けて、玄関のドアの鍵を開けた。
「皇くんは好きって言ってくれるけど——
——もう、私なんかやめといたほうがいいよ?」
「————」
バタンと、静かな音がして。2人は一枚の扉に遮られた。
「先輩!」
いとも容易く生じた隔壁。しかし、それは確かな質量をもって両者を遮断する。
「先輩、なんで——」
なんでそんなことを言うんだ、と皇は思った。思ってしまった。だけど、無理もない。あんなことがあって、当事者である巴の心情は皇が推し量れるものでは決してない。
だから。だけど——。皇は悔しかった。先輩は悪くないのに。それなのに、なぜ苦しまなくちゃいけないんだ。思わず天を仰ぐ。眩しさは感じない。
あれほど晴れていた青空は、いつしか曇天と呼べるものに変わり果てていた。




