第42話 倫理反転
後悔はしない方がいい——。それは身に沁みて分かっている。
その男には後悔があった。ちょうど2年前。卒業式の日。自分に好意を寄せていた女子生徒に手を出し損ねた。
並々ならぬ葛藤があった。教師と元生徒となる関係。倫理観。その年齢。その容姿。それらすべてを勘案するうちに機を逸した。
度胸が足りなかった。自分は臆病だった。今にして思えば、襲ってしまえばよかったと思う。いや、襲うべきだった。それが相手の望みでもあったはずだ。そうに決まっている。
男は心を入れ替えた。ぐるんと。オセロの白がひっくり返って黒になるように。これまでは「いい先生」を演じてきた。矜持も理想も哲学もなく。ただなんとなく。だがそれは自分にとって何の利益も生まないのだと気が付いた。気が付いてしまった。気が付かなかったほうが幸せだったかもしれない。しかし気が付いてしまった。この期に及んで気が付いていないふりなどできはしない。
そう、彼は——
白尾爽悟は、気付いてしまった。
(いい人のふりに、何の意味がある?)
人生。それは唯一無二である。長くともたったの百年、それも一度きりしかないのだ。他人に遠慮し、万人の顔色を窺って生きるなんて笑止千万。もってのほかだ。そんな生き方は窮屈でしかなく、退屈でしかない。自分の生きたいように生きてこその人生ではないか? ——ああ、そうだ。俺は今までいったい何をやっていた? 俺は。白尾爽悟は気付いたんだ。気付けたんだ。
そうして——いつになく晴々とした気分のまま、彼は朗らかに笑った。
——しかし。彼は気付いていなかった。
自分が知らず邪悪な笑みを浮かべていたことに。
やがて破滅への道をたどるその思考に。
いずれにも彼は気付くことなく——
喧騒から隔離された校内の一室で。
三船巴を待っていた。




