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第32話 恋人たちのバイオレンス①

 八神が階段を昇ってくる。小野の身体は動かない。彼は思う。もし今ここで強く右腕を押し出せたなら、八神を階段から突き落とせると。

(——できない)

 それは勇気がないとかいう話ではなく。身体が動かないのだ。さながら蛇に睨まれた蛙のように。——いや、蛙は一瞬の隙を窺っているが故に動かないという話もあるか。

(——だとしたら、俺は蛙以下だ)

 次の瞬間。有無を言わさず放たれた八神の拳が、小野の頬にめり込んだ。


 そこからの記憶は断片的にしかないが、それでいい。殴られた記憶なんてなくていい。何発か殴られ、よろけて倒れたところに蹴りを入れられる。どうせいつもの何の芸もない暴行だ。

 そして、あの女もいつもと何も変わらない。暴行の現場に居合わせながら、どこか冷めたような、自分はまったくの部外者だとでもいうような面をしている。


 それなのに。行かないほうがいい?


 ——は。何を今更。そんなのは偽善だろ? 俺は運命は変えられないということを知っている。だから、ここに来た。

 身体の痛みはとうに分からなくなっている。石畳の上に寝ているからか、八神の靴が落ち葉を踏む音がやけに大きく聞こえる。ああ、危機に瀕して感覚が過敏になっているだけかもしれないか。


「小野くん、今日もいい子だったね」

 八神が笑う。倒れ伏す小野を見下しながら、心の底から楽しそうに笑んでいる。小野を殴る前はピリピリした空気を纏っていたが、今はとても機嫌がいい。屈託のない笑顔はまるで子供のようで、それが逆に恐ろしくもある。

「そうだ碧ちゃん。小野くんにゴホウビあげようか」

 にこやかに八神が提案する。声は弾み、邪気は無い。本来の意味での確信犯。


 ——ゴホウビ。朦朧とする意識の中で、小野の耳は聞き覚えのある単語を捉えていた。


「えーっ! 今日もやるの!?」

 戸惑うような碧の声。

「ほら早く」

 八神に背中を押され、彼女は小野に近づいた。

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