わたしは先生に導かれたい 後編-4
親指が立つ。人差し指が立つ。中指が――
私は床を蹴った。
「第21階梯穿つ氷柱」
さっきまで私が立っていた場所に、人の背丈ほどもある氷の杭が突き刺さった。石床が蜘蛛の巣状にひび割れ、冷気が足首を撫でていく。
速い。詠唱らしい詠唱がない。それでいて、階梯は二十を超えている。
これが、アルフの遺物。全知の書から術を引き、魔力の代償すら払わずに撃つ力。
「逃げ足は速ぇな」
先生の指が、また動く。親指。人差し指。中指。
――見える。
私は二射目を、半歩横に滑るだけでかわした。氷の杭が頬の横を掠め、髪が数本、凍って砕けた。
先生の術は速い。けれど、あのカフェでレイラさんがニーアに話していた、あの三段階がある。親指で探して、人差し指で定めて、中指で撃つ。人差し指が立ってから中指が立つまでの、ほんの一拍。その一拍が、私に着弾点を教えてくれる。
銃口の向きを見ればいい。中指が立つ前に、そこから外れればいい。
三射目、四射目、五射目。私はすべて半歩でかわした。
「……ほう」
先生の目が細くなった。そして――右手を、上着のポケットに突っ込んだ。
「っ!」
「見てるのは指だろ。だったら見せなきゃいい」
ポケットの中で、布越しにかすかに何かが動いた。次の瞬間、足元の床から鎖が噴き出した。
「第22階梯縛める鉄鎖!」
かわせない。着弾点が読めない。私はとっさに、指先で太腿の上に式を描いた。
「幻体転移」
鎖が私の胴に巻きついた――瞬間、私の姿はガラスのように砕けて消えた。本物の私は、三歩後ろの石柱の陰にいる。
あの手合わせで、ニーアの目の前に「ニーア自身」を立たせた術。陛下から直々に教わった、王家の幻術。
「――第24階梯、看破の陽」
先生の声と同時に、広間全体が真紅の光に満たされた。
肌が焼けるような光ではなかった。むしろ、裸にされるような光だった。私が石柱の陰に重ねていた三体の幻体が、光に触れた端から音もなく溶けていく。隠れていた私の本体が、苔の光の下に剥き出しになる。
「その手はもう見た」
先生の静かな声が、広間に落ちた。
――ニーアと、同じ台詞。
あの手合わせのとき、砂塵の中で、あの子は私に向かって叫んだ。もうその魔術は見た、と。あの子のまっすぐさは、この人に教わったものなのだと、こんな場面で思い知らされる。
◇
そこから先は、削り合いだった。
私は幻術で先生の目を欺き、先生は真紅の光でそれを剥がす。私が新しい幻を編むたびに、先生は新しい看破を引いてくる。全知の書に、終わりはない。
そして、先生には代償がない。私には、ある。
幻術は魔力を食う。視覚を騙すだけならまだしも、先生ほどの相手を欺くには、魔力の気配や足音、体温まで偽らなければならない。式を一つ編むごとに、身体の芯から何かが削れていく。
「……っ、はぁ……っ」
息が上がる。視界の端が、じわりと暗くなる。
それでも私は、一度も攻撃の術を撃たなかった。
撃てなかった、のではない。撃たなかった。
私がその気になれば、この広間ごと先生を幻の中に沈めることはできる。陛下に教わった、複数の幻を同時に重ねて相手の五感をばらばらに引き裂く術。あれを全力で使えば、さすがの先生も無事では済まない。
でも、この人はハストの相棒だ。あの寝てばかりの男が、この世界でたった一人「相棒」と呼ぶ人だ。
そして、ニーアの先生だ。
それに――私は、気づいてしまっていた。
氷の杭。鉄の鎖。重力の檻。先生がさっきから撃ってくる術は、どれも私を縛るか、足を止めるためのものばかりだった。殺すための術を、先生は一度も引いていない。
「……あなた、優しいのね」
思わずこぼれた言葉に、先生の眉がぴくりと動いた。
「何の話だ」
「なんでもないわ」
先生の左手が、私の右手を指した。
「お前、指で描いてるな」
しまった、と思ったときには遅かった。
「第20階梯凍てつく枷」
右手の指が、五本まとめて氷に閉ざされた。太腿の上で式を描いていた人差し指ごと。癖だった。手合わせのときも、リリーと話したときも、窓枠に指を滑らせて無詠唱の式を描いていた。この人は、ずっとそれを見ていたのだ。
左手に切り替える。描きかけた瞬間、同じ術がもう一度飛んできた。左手も、凍った。
両手が使えない。
「……さぁ、どうする」
先生がポケットから右手を出した。もう隠す必要がない、とでも言うように。
銃の形。親指。人差し指。
銃口が、私の胸の真ん中を指していた。
「第23階梯貫く鉄鎖」
避けられない。足が動かない。魔力が、もう足りない。
鎖の切っ先が、私の胸元に届く――
ぱきん。
乾いた音がした。
鎖が、私の胸の一寸手前で止まっていた。白い霜に覆われて、ぴくりとも動かない。凍った鎖の先端に、淡く光る紋様が浮かんでいる。
二羽の鳥が向かい合う意匠。フォルト家の紋。
胸ポケットの中で、紙が燃え尽きる感触がした。
『この札の持ち主を害する刃は、一度だけ凍る』
「……ニーア」
声が、勝手に漏れた。
あの子のお守りが、守ってくれた。たった一回きりの約束を、世界がちゃんと守ってくれた。
――そして、それが最悪の形で、先生の目に映った。
「……フォルトの、紋」
先生の顔から、色が消えていた。
「ニーアに作らせたのか」
「ちが……っ、これは、あの子が自分で――」
「ああ、そうだろうな」
先生の声が、低く、低く沈んでいく。
「自分で作って、自分で渡したんだろうな。友達だと思ってる相手に。……そうやって取り入ったんだろう」
違う。そうじゃない。
でも、何を言えばいい。何を言っても、この人の耳には「取り入った者の言い訳」にしか聞こえない。私が何者かを言えない限り。
先生の右腕から立ち昇る紅い煙が、目に見えて濃くなった。怒りの色。ううん、憤怒の色。ニーアがそう呼んだ、あの色だ。
「契約魔術を覚えて、まだ一週間も経ってねぇガキに、もうお使いってか?....あいつがどれだけ……どれだけ必死に、あれを掴んだと思ってやがる」
先生の銃口が、私の額に向けられた。今度は、指先は震えていなかった。
「最後だ。答えろ。お前は、誰だ」
◇
背中に、石柱の冷たさが当たっていた。
両手は凍って動かない。魔力はほとんど空っぽ。転移石はただの石ころ。逃げ場はどこにもない。
――困ったら、そのペンダントを砕け。
あの男の、眠たげな声が頭をよぎった。
砕けば来る。あの男は、必ず来る。そして全部ひっくり返す。いつだってそうだった。私が泣いていても、怒っていても、困っていても、あの男は面倒くさそうな顔をして、全部を平らにしてしまう。
だから嫌だった。借りを作るのが嫌だった。一人でもやれると、証明したかった。
でも。
私は、先生の顔を見た。
怒っている。本気で怒っている。でもその怒りの奥に、何かを必死で守ろうとする目がある。ニーアを。たった一週間前に弟子にした、まだ契約魔術を覚えたばかりの女の子を。
この人の過去を、私はレイラさんから聞いて知っている。この人は、昔、目の前で大切な誰かを守れなかった人だ。
このままこの人が私を撃ったら。
真実を知ったとき、この人はきっと一生、自分を許さない。ハストの相棒として、ニーアの師匠として、取り返しのつかない傷を自分で自分に刻むことになる。
そしてニーアは――友達を傷つけたのが、自分の大好きな先生だと知ってしまう。
『もう、誰かに傷つけられてほしくないんです』
あの子は、そう言った。
私のためだけなら、砕かなかった。意地でも、最後まで黙っていた。
でも、これは私だけの問題じゃない。
「……先生」
私は、凍りついた右手を持ち上げた。指は動かない。五本まとめて氷に閉ざされた、ただの塊。
「あなたの氷、殴るにはちょうどいいわね」
「――は?」
私はその氷の拳を、自分の胸元に叩きつけた。
制服の上から、ペンダントの硬い感触。ライトブルーの鉱石。上品に金で刻まれた文字。砕きたいとは思えないほど美しかった、あの首飾り。
ぴしり、と。氷の拳の下で、ひびの入る音がした。
「おい、何を――」
もう一度。
先生の氷が、ハストの石を砕いた。
――ぱりん。
澄んだ音が、広間に響き渡った。
砕けた鉱石の欠片が、胸元からこぼれ落ちる。床に落ちる前に、その一つ一つが光を放った。青。ううん、違う。もっと深い、底の見えない湖みたいな色。
碧。
広間を満たしていた先生の真紅の光が、端から塗り替えられていく。苔の青白い光も、氷の白も、すべてが碧に呑み込まれていく。
先生の銃口が、揺れた。
「この、色……」
その目が、大きく見開かれていた。
「お前、まさか――」
先生が何かを言い終えるより早く、私の目の前の空間が、碧く裂けた。
裂け目から最初に出てきたのは、足だった。
裸足だった。指の間に、白い砂粒がついている。
続いて、膝丈のゆったりしたズボン。派手な花柄のシャツ。頭の上に押し上げられた色眼鏡。そして片手には、細長いグラスに挿さったストローと、縁に飾られた輪切りの果物。
「……ん。あ? どこだここ」
眠たげな声だった。寝起きそのものの、間の抜けた声。
ハスト・アーネットは碧い光の残滓をまといながら、ダンジョンの第九層に降り立った。ストローを咥えたまま、ぐるりと周囲を見回す。苔の光。倒れた石柱。そして、真紅の煙を立ち昇らせたまま固まっている相棒。
「お、アルスじゃん。久しぶり。何してんの、こんなとこで」
「……ハスト……?」
「なんだよその顔。呼ばれたから来たんだっての。で、呼んだのは――」
ハストはストローを咥えたまま振り返り、そこでようやく私を見た。
石柱に背中を預けて、へたり込んでいる私を。
氷に閉ざされた両手を。凍りついた鎖の切っ先が、私の胸元の一寸手前で止まっているのを。そして、砕けたペンダントの欠片が散らばる、制服の胸元を。
ハストの指から、グラスが滑り落ちた。
ぱりん、と。私がペンダントを砕いたときと同じ音を立てて、南国の色をした飲み物が石床に散った。
ハストは、それを見もしなかった。
空気が、変わった。
最初に消えたのは、苔の光だった。壁一面に生えていた青白い苔が、まるで息を潜めるように、端から一つずつ光を失っていく。次に、床に転がっていた小石がかたかたと震え出した。天井の闇の奥で、岩盤がぎしりと軋む音がした。
先生の右腕から立ち昇っていた真紅の煙が、目に見えない手に頭を押さえつけられたように、地を這うほど低く沈んだ。
覇気だ。
知っている。私はこの男の覇気を、何度も間近で見てきた。それでも、膝が震えた。ハストのことを知っている私でさえ、本能が「逃げろ」と叫んでいた。リリーが私に向けた目は、きっとこういう気持ちだったのだろう。
「……誰がやった」
低い声だった。眠たげな響きは、どこにもなかった。
ハストの瞳が、碧く燃えていた。いつもは面倒くさそうに細められている目が、今は瞬きひとつしない。
「ハスト、待て。そいつから離れろ。そいつは王家の幻術を使う。サリナのことも知ってる。推薦人は学長が伏せてる。ニーアに近づいて、フォルトの契約魔術を――」
「聞いてねぇ」
先生の言葉が、断ち切られた。
「誰がやったかって、聞いてんだ」
先生は答えなかった。
答える必要がなかった。私の両手を閉ざしている氷。その表面に刻まれた霜の紋様。ハストは、それが誰の術式の癖か、誰よりもよく知っている。何年も隣で戦ってきた相棒の氷なのだから。
ハストの視線が、私の手から、ゆっくりと先生へ移った。
「……お前か」
その一言で、広間の温度がさらに下がった気がした。
「『覇権ソルバート』――フォルム・スライサー」
ハストの右手に、碧く燃え盛る剣が現れた。実体を持たない、炎そのものを刃の形に押し固めたような剣。ハストはそれを、どの流派にも属さない我流の構えで、だらりと下げた。
次の瞬間、ハストの姿が消えた。
音はなかった。
気づいたときには、ハストは私の目の前に立っていて、私の胸元で止まっていた先生の鎖が、根元から細切れになって床に落ちていた。切り口が碧く光り、凍りついた鉄が音もなく霧のように崩れていく。
ハストは私を背中に隠すようにして、先生と向き合った。
先生の右手が、反射的に持ち上がった。銃の形のまま。
銃口が、ハストの胸に向きかけて――
下りた。
先生は、自分の手を見下ろしていた。持ち上げかけて、下ろしてしまった右手を。まるで、自分でも何が起きたのかわからないというように。
「……下ろすのかよ」
ハストの声が、震えていた。怒りで。
「俺には向けらんねぇくせに。……だったら最初から、こいつにも向けんじゃねぇよ」
ハストの左手が、拳を握った。
「……ソルバート」
拳に、碧い権能がまとわりついた。
踏み込みの音すらしなかった。ハストの拳が先生の腹にめり込んだ瞬間、先生の身体が真後ろに吹き飛んだ。一本目の石柱を砕き、二本目の石柱をへし折り、三本目の石柱に背中からめり込んで、ようやく止まった。遅れて轟音が広間を揺らし、天井からばらばらと岩の欠片が降ってきた。
「……が……っは……」
瓦礫の中で、先生が咳き込んだ。
ハストは止まらなかった。碧い剣を床に引きずりながら、一歩、また一歩と瓦礫の山へ歩いていく。剣先が石床を撫でた跡が、碧く焼けて溝になっていく。
そして私は見た。
ハストの剣の、碧い炎の縁が――じわりと、別の色に滲み始めているのを。
本気の色だ。この男が、本当の本気になったときにだけ見せる色。私だって数えるほどしか見たことがない。それが今、私の目の前で、相棒に向けられようとしている。
「……悪かった、とは……言わねぇぞ」
瓦礫にもたれたまま、先生が顔を上げた。口の端から血が垂れている。それでも、その目は逸らさなかった。
「俺は……ニーアを、守ろうとしただけだ……」
「守る?」
ハストが剣を持ち上げた。
「お前が凍らせたのは誰だと思ってる」
――だめ。
私は立ち上がっていた。足に力が入らない。魔力も空っぽ。両手はまだ氷に閉ざされたまま。それでも、身体が勝手に前へ出た。
掴めない手で、私はハストの背中にしがみついた。凍った拳が、花柄のシャツ越しにハストの背骨にごつりと当たる。
「ハスト!! やめてッ!!!」
ハストの足が、止まった。
「その人は、ニーアの先生よ。……あの子が、やっと見つけた先生なの」
息が切れる。声がかすれる。それでも言わなきゃいけない。
「それにね、あの人、一度も私を殺す術を撃たなかった。最後の最後まで、縛るか止めるかしかしなかったのよ。……私が何も言えなかったから、ああするしかなかっただけ」
ハストは、振り返らなかった。
剣を持ち上げたまま、長い、長い息を吐いた。
滲み始めていた別の色が、ゆっくりと碧に戻っていく。燃え盛っていた炎が細くなり、やがて碧い火の粉になって、ハストの手の中でほどけるように消えた。
苔の光が、ひとつ、またひとつと戻ってくる。
「……わかってるよ」
ハストは、ぼそりと呟いた。私にではなく、自分に言い聞かせるように。
瓦礫の中から、先生がかすれた声で笑った。
「……頭、冷えたか。相棒」
「うるせぇ。お前が言うな」
◇
「……遅い」
ようやく出た私の第一声は、それだった。
ハストは私を石柱の前に座らせ、自分もしゃがみこんで、凍りついた右手を両手で包んだ。手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる。錬成術の熱だ。氷が内側から緩んで、ぽたり、ぽたりと雫になって落ちていく。
「……悪い。遅くなった」
素直に謝られて、拍子抜けした。いつもなら、ここで嫌味のひとつも返ってくるのに。
右手の氷が溶けきる。ハストは私の指を一本ずつ、曲げたり伸ばしたりして確かめた。凍傷になっていないか。骨は折れていないか。
その手が、少しだけ震えていた。
そして、私の手首を握る力が、強すぎた。
「……ハスト? 痛いんだけど」
「ん。……悪い」
ハストは力を緩めて、左手の氷に取りかかった。何も言わない。俯いた横顔からは、表情が読めなかった。
「ねぇ。なんで、あんなに怒ってたのよ」
「は?」
「アルス先生、あなたの相棒でしょ。あそこまでしなくても」
ハストは手を止めて、少し考えるような顔をした。それから、本当に不思議そうに首を傾げた。
「……パートナーが凍らされてたら、怒るだろ。普通」
「普通、って……」
「普通だろ」
そう言い切ったハストの顔は、自分でも何かが腑に落ちていないような、変な顔だった。
私もなぜか、それ以上何も言えなくなって、溶けていく左手の氷をじっと見つめた。胸のあたりが、少しだけうるさい。きっと、さっきまで死にかけていたせいだ。そうに違いない。
左手の氷が溶けきったところで、私は一番聞きたかったことを思い出した
「……ねぇ。アルス先生に、私のこと話してなかったでしょ」
ハストの手が、ぴたりと止まった。
「……」
「話して、なかったでしょ」
「……あー」
ハストは私から目を逸らし、天井の闇を見上げた。そして、ひゅう、と下手くそな口笛を吹いた。
「言ったつもりだった」
「つもり!?」
「いや、言おうとは思ったんだよ。通信の魔晶石も鳴ってたし。でもそんとき、ちょうど波がいい感じでさ」
「波!?」
「波」
「このクソガキィィィィ!!!」
溶けたばかりの右手で、私はハストの胸ぐらを掴んだ。花柄のシャツがくしゃくしゃになる。ハストは抵抗もせずにされるがままになりながら、ほんの少しだけ、安心したように口の端を上げた。
「……元気そうで、なにより」
「誰のせいだと思ってんのよ!!」
「……おい」
瓦礫の山から、低い声がした。
先生が、這い出してくるところだった。腹を押さえ、上着は埃まみれで、髪には石の欠片が刺さっている。それでも自力で立ち上がると、ふらつく足取りでこちらに歩いてきた。
その目は、もう真紅ではなかった。
「……ハスト。説明しろ」
ハストは私の手を胸ぐらから外させると、立ち上がって先生と向き合った。
「アルス。伝え忘れたのは俺が悪い。それは認める」
「……ああ」
「けど、それとこれとは別だ。こいつの手が元通りになるまで、俺はお前を許さねぇ」
先生は、私の赤く腫れた両手を見た。長いあいだ、黙って見ていた。
「……ああ。それでいい」
「――ま、すぐ治しちまうけどなッ!」
ハストはけろっと笑うと、私と先生のあいだに立って、両手をぱんと打ち合わせた。
「ちょっ、今の流れで!?」
「許さねぇのは手が元通りになるまでだろ? じゃあ元通りにすりゃ全部チャラだ」
「それ自分で言う!?」
私のツッコミを無視して、碧い陣がふたつ、私と先生の足元に同時に広がった。治癒魔術。けれど、教会の治癒師が使うものとはまるで違う。傷を塞ぐのではない。身体そのものを「傷がなかった状態」へ書き換えていく、覇権の改変だ。
赤く腫れていた指が、すっと白に戻っていく。凍傷の痺れが、嘘みたいに消える。先生のほうでは、腹を押さえていた手がゆっくりと離れ、口の端の血も、髪に刺さった石の欠片も、上着の埃までもが消えていった。
「……おい、服まで直すな」
「ついでだ。――ソルバート、最後のひと押しだ」
陣の碧が、もう一段深くなった。
次の瞬間、空っぽだった身体の芯に、温かいものがなみなみと満ちてきた。魔力だ。先生との削り合いで底をついたはずの私の魔力が、器の縁まで戻ってくる。
「魔力まで……」
「お前ら、このあと上に行くんだろ。ガス欠のまま行かせるかよ」
先生は自分の手のひらを握ったり開いたりして、苦笑した。
「……相変わらず、デタラメだな」
「褒め言葉として受け取っとく」
さっきまで、あれだけ怒っていたくせに。この男はいつだってこうだ。泣いていても、怒っていても、困っていても、面倒くさそうな顔をして全部を平らにしてしまう。
……それが嫌いじゃないと思ってしまう自分が、一番悔しい。
ハストはふん、と鼻を鳴らすと、先生がへし折った石柱の残骸に手をかざした。
ハストがぱちんと指を鳴らした。
足元に錬成の陣が浮かび、碧く染まる。砕けた石が、粘土のようにうねりながら形を変えていく。平らな天板。太い脚。背もたれのついた椅子が、ひとつ、ふたつ、みっつ。瞬きする間に、広間の真ん中に石造りの丸いテーブルと三脚の椅子が出来上がっていた。
「錬成術の無駄遣い……」
「有効活用って言え」
ハストはどこからともなくティーポットとカップを三つ取り出し、テーブルに並べた。湯気の立つ紅茶が、とぽとぽと注がれていく。砂糖壺は、ない。
先生がそれを見て、苦い顔をした。
「……ストレートかよ」
「エトワールがうるせぇんだよ。ストレート以外は邪道だって。お前も飲まされてんだろ」
「……知り合いにうるさい奴がいる、とは言ったな」
先生は、何かを諦めたように深く息を吐いた。ハストは床に散らばったグラスの破片をちらりと見て、
「あれ高かったのに」と小さくぼやいた。
「この階層、外と切れてるんだったか?」
「……ああ。俺が切った」
「じゃあ内緒話にはちょうどいいな」
ハストは椅子を引いて、どかりと腰を下ろした。そして、空いている二つの椅子を顎で示した。
「座れよ、二人とも」
私は、恐る恐る先生を見た。先生も、私を見ていた。
真紅の煙は、もうどこにもなかった。代わりにその目にあったのは、混乱と、後悔の予感と、それから――さっきまで凍りついていた私の両手を見つめる、痛みのようなものだった。
先生は何かを言いかけて、口を閉じた。そして黙って椅子を引き、腰を下ろした。
私も、その向かいに座った。
「よし」
ハストはカップを指先で弾いた。
「話すことは三つある。お前の早とちりの話と、こいつの正体の話と、俺がサボってた話だ」
「……一番悪いのお前じゃねぇか」
「だから三番目にしてんだろ」
「順番の問題じゃねぇ」
先生のツッコミに、ハストは喉の奥でくっくと笑った。それから、ふと天井を見上げた。闇の向こう、ずっと上のほうを。
「あ、そうだ。先に言っとくけどな、アルス」
「なんだよ」
「上の階で、誰かがお前の結界に穴あけようとしてるぞ。契約魔術で。……結構面白ぇ結び方してる」
先生の目が、大きく見開かれた。
「……ニーア」
私と先生の声が、重なった。
ハストは満足げに頷いて、紅茶を一口すすった。
「時間ねぇな。じゃ、さっさと始めるか」
碧い光が、テーブルの上で静かに揺れていた。
「――さて、話をしようか」




