わたしは先生に導かれたい 後編ー3
ハブられ分館の職員室は、放課後になると驚くほど静かになる。
そもそもこの分館に常駐している教師が少ないのだ。初等部の担任が二人、用務員の爺さんが一人、そしてアルス。夕暮れの職員室には、アルスが採点している初等部の小テストの紙をめくる音だけが響いていた。
『おはなのたねをつくるまじゅつ ジェネレートシード』
丸。花丸。大きく書かれた拙い字に、アルスの口元が自然と緩む。
こんこん、と控えめなノックが鳴ったのはそのときだった。
「開いてるぞー」
扉を開けて入ってきたのは、初等部の子どもではなかった。きっちりと結い上げた金髪に、Sクラスの徽章。背筋は真っ直ぐ伸びているのに、組んだ指先がわずかに白い。
「……リリー・イザベラ嬢か。珍しいな、お貴族サマが職員室に何の用だ」
「失礼いたします、アルス先生。少し、お時間をいただけますか」
アルスは赤ペンを置いた。リリー・イザベラ。イザベラ公爵家の娘。四大貴族の一角、かつて魔術を専攻した「本家」は途絶え、今は分家が家名を継いでいる。Sクラスの首席で、自分の授業が自習になるのを露骨に見下していた生徒でもある。
そのリリーが、自分を頼ってきた。それだけで、ただ事ではないとわかった。
「座れよ」
リリーは勧められた椅子に浅く腰かけた。膝の上で揃えた手が、まだ白い。
「転入生の、フィアット・セルジーネのことです」
アルスの指が、机の上でぴたりと止まった。
「一週間ほど前、彼女に声をかけました。あの手合わせで見た魔力が気になって。……わたくしは、自分の勘には自信があります。あれは学生の魔力ではありません」
「……それで?」
「彼女は、抑えていた魔力を一瞬だけ解放しました。わたくしに見せつけるように」
リリーは唇を噛んだ。思い出しただけで震えが戻ってきたのか、組んだ指に力がこもる。
「少女の形をした、化け物でした。わたくしは……足がすくんで、立てませんでした」
プライドの高いこの娘が、それを教師に告白するのにどれほどの勇気が要ったか。アルスは茶化さなかった。
「それだけじゃ、ねぇんだろ」
「……はい」
リリーは顔を上げた。
「彼女はわたくしに言いました。『腐ってもあの人の分家なのね』と。……先生。イザベラ本家のことを『あの人』と呼べる人間が、今この国に何人いると思いますか」
アルスの背筋を、冷たいものが這い上がった。
イザベラ本家。二百年前に途絶えたはずの、魔術の名家。その最後の当主が今も森の奥で菓子をねだりながら生きていることを知る者は、片手で数えられるほどしかいない。王と、頂天者の一部と、自分と、レイラと――相棒と。
そのどこにも、フィアット・セルジーネという名前はなかった。
「わたくし、なぜここに来たのか自分でもよくわかりません。でも……初等部の子たちが言うのです。アルス先生は、困っている人を絶対に見捨てないって」
リリーは立ち上がり、深く頭を下げた。
「フォルトさんは、毎日あの女と一緒にいます。どうか、お気をつけください」
職員室の扉が閉まったあと、アルスはしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がり、書類棚の一番下の引き出しを開ける。転入生の書類綴り。めくる。フィアット・セルジーネ。家名、生年、前籍校――そして推薦人の欄。
『本件推薦人については機密扱いとする 学長承認』
学長直々の判。理由の記載なし。
「……学長のジジイまでグルかよ」
低く呟いて、アルスは懐から携帯を取り出した。親指で表面をなぞり、相棒の波長を呼び出す。
光が明滅する。一回、二回、三回。
応答は、なかった。
「……肝心なときに出やしねぇ」
携帯を握りしめる。あいつのことだ、どうせどこかで昼寝でもしているのだろう。いつものことだ。いつものことなのに、今日に限ってその沈黙が胸に引っかかった。
王家の幻術。隊長格を凌ぐ魔力。サリナの正体を知る口ぶり。学長が伏せた推薦人。そして、国の根を握る契約魔術を、ようやく使えるようになったばかりの少女。
点と点が、嫌な形で繋がっていく。
アルスは右手を見下ろした。親指を立てかけて――やめる。調べるまでもない、と思ってしまった自分がいた。
『確かめる前に撃つでないぞ』
サリナの声が耳の奥で響く。
「……わーってるよ。だから確かめんだろうが」
窓の外では、ニーアが寮へ向かう坂道を、フィアットと並んで歩いていた。楽しそうに何かを話しながら、ニーアが手を振り回している。フィアットがそれを見て笑っている。
その光景が穏やかであればあるほど、アルスの拳は固く握りしめられていった。
◇
――最近、アルス先生の視線が痛い。
寮の自室のベッドに寝転んで、私は天井を見上げた。
一日だけ学校を休んで戻ってきたニーアは、見違えるようだった。術式の組み方から無駄が消え、魔力の揺らぎもほとんどない。たった一日で何があったのかと聞いても、「えへへ、ちょっと特訓を」とはぐらかすばかり。一日でどうにかなる伸び方じゃない。けれど、あの子が嘘をつけるような子じゃないことも、私はもう知っていた。
それはいい。問題は、アルス先生のほうだ。
ニーアが休んだのと同じ日、アルス先生も分館を空けていたらしい。そしてその翌日から、先生は私を見ていない。正確には、見ていないふりをして、ずっと見ている。教室で、廊下で、校庭で。視線を向けた瞬間に逸らされるのに、背中にはずっと刺さっている。
「……あれ、完全に疑われてるわよね」
胸元のペンダントを指先でつまむ。ライトブルーの鉱石が、窓から差す街灯の光を受けてかすかに揺らめいた。
言えたら、どれだけ楽か。
私はハストのパートナーです。あなたの相棒の、あの寝てばかりの『覇王』の。ニーアを狙ってなんかいない、むしろ守るためにここにいるんです――と。
でも、言えない。『覇王』の正体は国家最重要機密だ。それを知っていると口にした瞬間、私が「なぜ知っているのか」を説明しなければならなくなる。そしてそれは、陛下とセルジーネ家と、何より、ハストの首を絞める。
それに――レイラさんとの約束もある。ニーアは自分の力でアルス先生にたどり着く。私はそれを陰から支えるだけ。私が裏で動いていたと知れば、あの子はきっと「また誰かに助けてもらった」と思ってしまう。
「……そもそも、なんでアルス先生は知らないのよ」
レイラさんは言っていた。『ハスト君からもオッケー貰っちゃってます』と。だったら当然、ハストからアルス先生に話は通っているはずで。
通って、いる、はずで。
「……あのクソガキ、まさか」
嫌な予感がした。あの男の『楽しんで来い、俺はこのバカンスを楽しむから』という台詞が、今さらになって不吉な響きを帯びてくる。
ペンダントを握る。『困ったらそのペンダントを砕け』。
「……誰が砕くもんですか。あいつに借りなんか作ったら、一生ネチネチ言われるに決まってる」
私はペンダントを胸元にしまい直し、枕に顔をうずめた。
◇
試験当日の朝は、よく晴れていた。
分館の裏手、切り立った崖の根元にぽっかりと口を開けたダンジョンの入口に、Sクラスの生徒たちが集まっている。初等部の子たちが「お姉ちゃんたちがんばれー!」と柵の向こうから手を振っていて、何人かの生徒が照れくさそうに手を振り返していた。
「ニーア、顔がこわばってるわよ」
隣でフィアットさんが小さく笑った。
「だ、だって試験ですし……」
「あなたなら大丈夫よ。ここ数日で、見違えるくらい上手になったもの」
大師匠の家での一週間は、師匠から口止めされている。わたしは曖昧に笑ってごまかしつつ、鞄に手を入れた。指先に触れた紙の感触を確かめる。今日のために、ノートの頁に何度も何度も練習して、ようやく完成させたもの。
「あの、フィアットさん。これ……」
差し出したのは、小さく折りたたんだ白い紙だった。表には、フォルト家の紋。
「……これは?」
「お守りです。契約魔術で作りました」
フィアットさんの目が、わずかに見開かれた。
「『この札の持ち主を害する刃は、一度だけ凍る』。……一回きりしか効かないし、フィアットさんほど強かったら必要ないかもしれないんですけど」
言いながら、だんだん恥ずかしくなってきた。転入初日にいじめられていたと打ち明けてくれた彼女に、わたしができることはこれくらいしか思いつかなかったのだ。
「わたし、フィアットさんの友達なので。……もう、誰かに傷つけられてほしくないんです」
フィアットさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、両手でそっとお守りを受け取った。まるで割れ物を扱うみたいに。そして、制服の胸ポケットに――ペンダントのすぐ隣に、丁寧に仕舞った。
「……ありがとう、ニーア。大事にするわ」
その声が少しだけ震えていた気がしたのは、わたしの気のせいだろうか。
「よぉし、お前ら揃ったな!」
入口の前に、アルス先生が立った。いつも通りの、気だるげで明るい声。
「ルールは前に言った通りだ。二人一組でダンジョンの最下層、第十層まで潜って、置いてあるフラッグを取ってくる。それだけ。罠もあるし魔物も出るが、お前らSクラスならまあ死にゃしねぇ」
先生は籠から小さな石を取り出し、生徒たちにひとつずつ配っていく。親指の爪くらいの、透明な石。
「支給の転移石だ。ヤバくなったら握りつぶせ。入口まで一発で戻ってこれる。使ったら失格だが、命よりは安いだろ」
わたしの手のひらにも、ころんと石が落とされた。そして次に、フィアットさんの手のひらにも。
その一瞬。石を渡すアルス先生の指先が、フィアットさんの手のひらの上でほんのわずかに止まったのを、わたしは見た。
「ペアは自由に組んでいいぞー」
「フィアットさん、一緒に行きましょう!」
「ええ、もちろん」
わたしたちが並ぶのを、アルス先生は黙って見ていた。顎に手を当てて。
――サーチの、仕草で。
「……そんじゃ、始め!」
号令とともに、生徒たちが次々とダンジョンの暗がりへ吸い込まれていく。わたしもフィアットさんと頷き合って、一歩を踏み出した。
振り返ると、入口に立つ師匠の姿が、逆光で黒く塗りつぶされていた。
ダンジョンの第一層は、拍子抜けするほど穏やかだった。
湿った石壁に、ぼんやりと光る苔。天井からぽたりと落ちる水滴の音。ときおり現れるスライムやコウモリ型の魔物は、Sクラスの生徒なら片手間で処理できる程度のものばかりだ。
「第一層から第三層までは、初等部の子たちの遠足コースらしいわよ」
「えっ、そうなんですか!?」
「アルス先生が引率して、ここでピクニックするんですって。さっき柵の向こうの子が教えてくれたわ」
フィアットさんがくすりと笑う。あの子たち、こんなところでお弁当を広げているのか。さすがは師匠の教え子たちだ。
第四層に入ると、空気が変わった。通路が入り組み、魔物の気配が濃くなる。曲がり角の先から、低い唸り声が聞こえた。
「ニーア、来るわ。三体」
「はいっ」
角から飛び出してきたのは、狼に似た魔物だった。灰色の毛並みに、赤く光る目。ダンジョンウルフ。群れで獲物を囲み、死角から喉を狙う魔物だ。
以前のわたしなら、慌てて大きな魔術を撃っていただろう。多重詠唱で風と氷をばら撒いて、砂埃を巻き上げて、自分の視界まで塞いで。
――卵を割るように。最初の一押しだけ。
吸って、描く。わたしは鞄から札を一枚抜き、通路の床にそっと置いた。フォルトの紋が淡く光る。吐いて、流す。
『この線を越えた獣は、凍る』
先頭のウルフが札の上を駆け抜けた瞬間、ぱきん、と乾いた音が鳴った。四肢が床ごと白く凍りつき、勢いのまま前のめりに倒れる。後続の二体がそれに躓いて足を止めた。
「アイシクルネイル」
一本ずつ、狙って撃つ。細い氷のダーツが、二体の眉間を正確に貫いた。
通路に、静寂が戻る。
砂埃は、少しも舞っていなかった。
「……すごい」
隣でフィアットさんが目を丸くしていた。
「ニーア、あなた本当に、たった一日休んだだけで……?」
「えへへ……ちょっと、いろいろあって」
「……いろいろ、ね」
フィアットさんは何か言いたげにわたしを見たけれど、それ以上は聞かなかった。わたしは床から札を拾い上げる。一度使った契約は燃え尽きて、白い灰になって指の間からこぼれていった。
第五層、第六層と、わたしたちは順調に潜っていった。フィアットさんは前に出すぎず、かといって後ろに下がりすぎず、わたしが術式を組む間の死角を、いつの間にか幻体で埋めてくれていた。魔物たちはありもしない「わたし」に飛びかかり、本物のわたしはその隙に札を置く。
言葉を交わさなくても、呼吸が合う。こんな感覚は初めてだった。
「フィアットさんって、誰かと組んで戦うの、慣れてますよね」
第六層の階段を下りながら、何気なく聞いてみた。フィアットさんの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……そう見える?」
「はい。なんていうか、隣にいる人を信じてる動き方っていうか」
「……まあ、ね。昔からずっと、手のかかる相方がいるのよ」
フィアットさんはそれ以上言わず、胸ポケットのあたりを軽く押さえた。わたしがお守りを入れたのと、同じ場所。
◇
第七層は、広い円形の広間だった。
天井が高く、壁に沿って崩れかけた石柱が並んでいる。中央には古い魔法陣の跡が、薄く床に刻まれていた。ほかのペアの姿は見えない。ずいぶん先行しているのか、まだ追いついていないのか。
「次の階段は……あっちですね」
広間の反対側に、下へ続く暗い口が見えた。わたしたちは並んで中央を横切る。
魔法陣の跡を、フィアットさんが踏んだ、そのときだった。
「――っ!?」
フィアットさんの胸ポケットから、白い光が漏れた。お守りではない。その隣、支給の転移石を入れていたほうのポケットだ。
「フィアットさん!?」
「ニーア、離れ――」
言葉の途中で、光が弾けた。
眩しさに目を閉じ、もう一度開けたとき、隣には誰もいなかった。
「……え?」
床に、フィアットさんの靴跡だけが残っている。魔法陣の跡は、何事もなかったかのように沈黙していた。
「フィアットさん! フィアットさーんっ!!」
叫んだ声が、広間の天井に反響して返ってくる。返事はない。
わたしは慌てて自分の転移石を握った。違う、これを使ったら入口に戻ってしまう。フィアットさんがどこに行ったのかわからないまま。
落ち着け。焦るな。焦ると形だけになる。
深呼吸をひとつ。吸って、吐いて。そして周囲を見回したとき、わたしは自分の足元に、さっきまでなかったものがあることに気づいた。
紅い線。
わたしを中心に、床に半径三歩ほどの円が描かれていた。円の内側の空気が、外とはわずかに違う。結界だ。手を伸ばすと、柔らかい膜に押し返された。
そして円の内側に、一枚のメモがひらりと落ちていた。
見慣れた、雑で、でも読みやすい字。
『ニーア。悪い。少しだけここで待ってろ。結界の中なら安全だ。すぐ戻る。――アルス』
指先が冷たくなった。
思い出す。入口で転移石を配ったときの、フィアットさんの手のひらの上でほんのわずかに止まった、師匠の指先。あのとき、師匠は石に何かを刻んでいたのだ。この魔法陣を踏んだら、フィアットさんだけがどこかへ飛ばされるように。
テラスでの会話が頭の中で巻き戻る。王家の幻術。隊長格を凌ぐ魔力。フォルト家の契約魔術を欲しがる連中。
『……だといいな』
「……っ、師匠……!」
違う。違うんです。フィアットさんはそんな人じゃない。
そう叫びたかったけれど、叫ぶ相手はここにいない。
わたしはメモを握りしめた。サリナさんの声が聞こえる。おぬしの友を、おぬしの目で見よ。誰かの言葉ではなく。
わたしの目で見たフィアットさんは。
お守りを両手で受け取ってくれた。わたしの死角を、黙って埋めてくれた。手のかかる相方がいると、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……行かなきゃ」
わたしは鞄から緑の革のノートを取り出し、まっさらな頁を開いた。ペンを握る手が震える。それを、もう片方の手で押さえつける。
師匠の結界を、わたしが破れるとは思わない。でも、契約魔術は「世界と結ぶ約束」だ。師匠がそう教えてくれた。
なら、約束の結び方次第で、きっと何かできるはずだ。
◇
足の裏に、硬い石の感触が戻ってきた。
私はとっさに膝を曲げて着地し、周囲に視線を走らせた。広い。第七層の広間よりさらに広い空間だ。天井は闇に溶けて見えず、ところどころに倒れた巨大な石柱が転がっている。壁一面に生えた苔が、青白い光をぼんやりと放っていた。
空気が重い。魔素が濃い。おそらく第九層か、それより下。
「……やられた」
胸ポケットに手を入れる。支給の転移石が、熱を帯びていた。入口で受け取ったときに、ほんの一瞬だけ止まった先生の指先。あれは、石に転移の座標を書き足していたのだ。
私は迷わず転移石を握りつぶした。ぱきり、と石が割れる。
――何も起きなかった。
「無駄だぞ」
声は、倒れた石柱の上からだった。
「この階層は今、外と切れてる。転移石なんざ、ただの石ころだ」
アルス先生が、石柱に腰かけていた。片膝を立てて、そこに肘を乗せて、顎に手を当てている。いつもの気だるげな教師の顔ではなかった。苔の青白い光に照らされたその顔は、驚くほど静かだった。
「よう、セルジーネ嬢」
「……アルス先生。これは、試験の一環でしょうか」
「そう思うか?」
思わない。思えるはずがない。
先生はゆっくりと石柱から降りた。足音が、広い空間にこつ、こつ、と反響する。私との距離は、まだ二十歩以上ある。先生はその距離を詰めようとはしなかった。
「先に言っとく。俺は、お前が答え次第じゃ何もしねぇ。ここで話して、納得したら、何事もなかったみたいに第十層のフラッグまで送ってやる」
「……」
「誰の差し金で、ニーアに近づいた」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
差し金。その言葉が、ある意味では正しいことが苦しかった。私は確かに頼まれてここにいる。レイラさんに。ハストに。ただ、その目的が、先生の想像とは正反対なだけで。
「……ニーアに危害を加えるつもりは、ありません」
「それは答えじゃねぇ」
先生の声は、低く、平らだった。
「推薦人は誰だ。学長が機密扱いにした推薦人だ」
答えられない。
「王家の幻術を、誰に習った」
答えられない。陛下の名前を出せば、なぜ一介の貴族の娘が国王に直接師事しているのかを話さなければならなくなる。
「イザベラの分家の娘に、『腐ってもあの人の分家』と言ったそうだな」
心臓が跳ねた。リリーだ。あの子が、先生に。
「あの人ってのは、誰のことだ」
――答えられない。
私は無意識に、胸元を握りしめていた。制服の上から、ペンダントの硬い感触が指に触れる。その隣には、ニーアがくれたお守りの、紙の柔らかさ。
言ってしまえたら。ハストの名前をひとつ口にするだけで、全部終わるのに。
でも、それを口にしたら、終わるのは誤解だけじゃない。
「……申し訳ありません。お答えできません」
広間に、長い沈黙が落ちた。
先生は、私の胸元を握る手をじっと見ていた。それから、ゆっくりと目を閉じて、深く息を吐いた。
「……そうか」
目が開く。
先生は右手を持ち上げた。親指を立てる。人差し指を立てる。中指を立てる。銃の形。
そして、その銃口を――私に向けた。
花畑を咲かせたときは、地面に向けていた手だった。子どもたちの前で魔術を見せるときも、いつも空か地面に向けていた手だった。その手が今、真っ直ぐに、私の胸元を狙っている。
よく見ると、その指先がほんのわずかに震えていた。
「だったら、力ずくで聞くしかねぇな」
紅い煙が、先生の右腕から立ち昇った。




