わたしは先生に導かれたい 後編ー2
卵を割る。たったそれだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。
「……あ」
ぐしゃり。殻ごとボウルに落ちた卵を見下ろして、わたしは固まった。これで三つ目だ。
「ふむ。力みすぎじゃな」
背後からひょいと覗き込んだサリナさんは、なぜかとても嬉しそうだった。
「す、すみません……! もったいないことを……」
「よい。殻は鶏小屋に撒けば土に還る。わしの畑に無駄なものなどひとつもない」
そう言いながら、サリナさんは籠から新しい卵をひとつ取り、わたしの手のひらに乗せた。小さな手が、わたしの指を一本ずつ卵に添わせていく。
「よいか、ニーア。台の角で叩くでない。平らなところで、こつん、じゃ。ひびが入ったら、あとは親指で開くだけでよい」
「こつん……」
「力を入れるのは最初の一瞬だけじゃ。あとは卵のほうが勝手に割れてくれる」
言われた通りに、平らな調理台の上でこつん、と一度だけ叩く。小さなひび。そこに親指をかけて、そっと左右に開く。
とろりと、黄身がボウルの底に滑り落ちた。殻のかけらは、ひとつもない。
「……できた」
「できたのう」
サリナさんはにっと笑うと、杖の先でボウルの縁をちょんと叩いた。
「では問題じゃ。今のは何の修行だと思う?」
「えっ……菓子作りの、ですよね?」
「半分正解じゃ」
半分。わたしは割れた卵と、自分の親指を見比べる。力を入れるのは最初の一瞬だけ。あとは勝手に割れてくれる。
――術式に魔力を流すのは、最初の一押しだけ。
「……魔力の流し方、ですか?」
「ほう」
サリナさんの眉がぴくりと上がった。台所の入口に寄りかかっていた師匠が、腕を組んだまま小さく口笛を吹く。
「おぬし、クソガキの前でセルジーネの娘とやり合ったそうじゃな」
「は、はい。……負けちゃいましたけど」
「そのとき、風の刃を撃ったじゃろう。砂が舞ったはずじゃ」
心臓が跳ねた。あの日、ウインドカッターを放った瞬間に舞い上がった砂塵。わたしは「どうだ」とでも言うようにあの砂埃を見つめていた。
「あれはの、おぬしの魔力が式からこぼれた跡じゃ。卵を握りつぶすのと同じよ。式に入りきらなかった分が外に溢れて、砂を巻き上げた」
「……あ」
「そして相手は、その砂塵を幕にして幻体を仕込んだ。違うか?」
言葉が出なかった。砂塵の中から現れたフィアットさん。切っても切っても手応えのない幻。――あの幕を張ったのは、わたし自身だったのだ。
「わたしが……わたしが、自分で相手に隠れ場所をあげてたんですね……」
「そういうことじゃ。だから最初の授業は卵なのよ」
サリナさんは満足げに頷くと、くるりと背を向けて食器棚へ向かった。
「わかったら、あと十個割れ。今日はカスタードを作るでな」
「じゅっ……はいっ!」
◇
その日の夕方、台所の窓から差す光が橙色に変わり始めたころだった。
「なぁサリナ。ひとつ確認したいんだが」
焼き上がりを待つオーブンの前で、師匠が唐突に口を開いた。視線は窓の外ではなく、居間の柱時計に向いている。
「なんじゃ」
「試験まであと一週間ねぇんだよ。俺が分館を空けたら初等部のがきんちょどもの面倒は誰が見る。ニーアだって本館の出席がある」
……そうだった。わたし、学校をサボってここにいるんだった。
顔からさあっと血の気が引く。フォルト家の長女が無断欠席。お父さまの顔が浮かぶ。いや、それよりも――アルス先生に迷惑が。
「し、師匠! わたし今すぐ戻って――」
「落ち着け、小娘。あとクソガキも」
サリナさんはため息をひとつつくと、杖の先で柱時計を指した。
「よう見てみい」
言われるまま、わたしは居間へ顔を出して柱時計を見上げた。
大きな振り子の時計だった。けれど文字盤が普通じゃない。針が二組ある。金色の長針と短針、そしてその内側に、ひと回り細い銀色の長針と短針。
銀色の長針が、目に見える速さでかちり、かちりと進んでいく。それに対して金色の長針は――止まっているように見えた。いや、よく見るとほんのわずかずつ動いている。
「金が外の時間、銀がこの家の時間じゃ」
「……え?」
「時空魔術。この境界の内側ではの、外の一日が七日になる」
頭が真っ白になった。時空魔術。教科書では「理論上存在しうる」とだけ書かれ、注釈には「行使の記録なし」とあった、あの。
「つまり、だ」
師匠が頭をがしがしと掻きながら補足する。
「ここで一週間みっちり修行しても、外じゃ一日しか経ってねぇってこった。……ったく、そういうのは先に言えよ」
「言ったら面白くないじゃろ」
「お前な」
「ほれ、おぬしの顔が見られたしの。満足じゃ」
けらけら笑うサリナさんに、師匠は額を押さえて天を仰いだ。わたしはまだ柱時計から目が離せない。
かちり。銀の針がまたひとつ進む。
「あ、あの……サリナさん」
「なんじゃ」
「こんな大きな魔術、代償は……? 魔力だって、とんでもない量が……」
口にしてから、しまったと思った。師匠の魔術には代償がない。レイラさんはそう言っていた。でも、サリナさんは師匠とは違う。
サリナさんは、すぐには答えなかった。
代わりに暖炉の上へ手を伸ばし、そこに置かれていた砂時計にそっと指先で触れた。古びた木枠に収められた、手のひらほどの砂時計。中の砂は――下から上へ、ゆっくりと昇っていた。
「代償はわしが払っておる。安いもんじゃ」
それだけ言って、サリナさんは砂時計から指を離した。まるで眠っている子どもの髪を撫でるような、やさしい触れ方だった。
わたしはそれ以上聞けなかった。隣で師匠が、何かを飲み込むように口を引き結んでいたから。
「さて!」
ぱん、と小さな手が打ち鳴らされる。
「オーブンの中身が焦げるぞ、ニーア。わしのカスタードタルトを炭にしたら、明日は卵を三十個割らせる」
「は、はいぃっ!」
◇
そこからの日々は、あっという間だった。
二日目はメレンゲだった。泡立て器でひたすら卵白をかき混ぜる。速すぎても遅すぎても駄目。一定の拍で、ずっと同じ力で。
「拍が乱れたぞ。今、何を考えた」
「……腕が痛いなって」
「正直でよろしい。だが、腕が痛いと思った瞬間に拍が崩れる。術式も同じじゃ。多重詠唱の二つ目で崩れるのは、一つ目を撃った安堵で拍を落とすからよ」
午後は師匠の番だった。森の開けた場所で、わたしはひたすら呼吸に合わせて術式を組む練習をした。吸って、描く。吐いて、流す。師匠は切り株に腰かけて、顎に手を当てたままわたしを眺めていた。
顎に手を当てる。それが師匠の検索の合図だと、今のわたしは知っている。師匠はわたしの術式を見ながら、わたしに足りないものを探してくれているのだ。
三日目はカスタード。弱火で、焦がさず、とろみがつくまで鍋の底をかき続ける。
「火を強くすれば早く固まる。が、底が焦げる。焦げた味は全体に回る。……出力も同じじゃな、アルス」
「なんで俺に振る」
「おぬしが一番わかっておるからじゃ」
師匠は返事をしなかった。ただ、鍋をかき回すわたしの手元を、少しだけ遠い目で見ていた。
四日目、わたしはマドレーヌを焦がした。
天板の上に並んだ十二個の貝殻形は、どれも縁が黒く、ひとつは真ん中まで苦くなっていた。わたしは天板を持ったまま、しばらく動けなかった。
今日は朝から何をやっても駄目だった。師匠との術式練習でも三回連続で式を崩した。焦るなと言われているのに、焦るなと思うほど焦る。
「……すみません。作り直します」
捨てようとした天板の端から、小さな手がひょいと一つつまみ上げた。一番焦げている、真ん中まで黒いやつ。
「サ、サリナさん!? それは――」
さくり。サリナさんは平然と焦げたマドレーヌをかじった。もぐもぐと咀嚼して、飲み込んで、うむと頷く。
「苦いの」
「だから言ったじゃないですか……!」
「だが、おぬしの味じゃ」
サリナさんは二口目をかじった。三口目も。結局、一番焦げたそれを最後まで食べきってから、指についた粉をぺろりと舐めた。
「焦げたところも含めて、今日のおぬしよ。捨てるでない。明日のおぬしが比べる相手がいなくなる」
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
泣きそうになって、慌てて天板を置く。視界の端で、師匠が居間のソファから少しだけ身を起こしていた。何も言わない。でも、その目が「な?」と笑っていた。
――ああ、この人たちは。
厳しいのに。めちゃくちゃなのに。わたしが転んだときに、転んだことごと拾ってくれる人たちなんだ。
五日目。マドレーヌは、焦げなかった。
◇
五日目の午後、師匠はわたしに一枚の紙を渡した。何の変哲もない、手のひら大の白い紙だ。
「付与魔術……契約魔術の使い方は覚えたな。じゃあ次は、それを戦いでどう使うかだ」
「戦いで、ですか? 契約魔術は書類に使うものだと……」
「それは貴族サマが決めた使い道だろ」
師匠はしゃがみこみ、地面に指で一本の線を引いた。
「契約ってのはな、相手と結ぶ約束じゃねぇ。世界と結ぶ約束だ。『この線を越えた者は凍る』――そう紙に刻んで、世界に誓わせる。誓った以上、世界はそれを守る。それが『魔の法律は誰でも敷ける』の、一番わかりやすい使い道だ」
「……世界に、誓わせる」
わたしは紙を見つめた。お父さまの書斎で何度も見た、公文書に押されるフォルト家の紋。あれは「この書類を偽る者には罰を」という誓いだった。偽りという線を越えた者に、罰を。
同じことだ。書類の上でも、地面の上でも。
「やってみろ」
師匠が立ち上がり、数歩下がる。わたしは深呼吸をひとつした。吸って、描く。紙にフォルトの紋と、短い誓いの文言。吐いて、流す。卵を割るように、最初の一押しだけ。
紙が淡く光り、紋が浮かび上がった。わたしはそれを、師匠の引いた線の上にそっと置く。
「よし。じゃあ俺が越えてみる」
「え、ちょ、師匠!?」
止める間もなく、師匠はひょいと線をまたいだ。
ぱきん、と乾いた音。師匠の右足首から膝まで、一瞬で白い霜が這い上がった。
「……っ、冷てぇ! はは、上出来だ!」
師匠は凍りついた足を見下ろして、心底楽しそうに笑った。それから右手で銃の形を作り、親指、人差し指、中指と順に立てて――その指先を、わたしではなく自分の足元の地面に向けた。紅い煙がふっと漏れ、霜が溶けて消える。
その仕草を見て、わたしはふと気づいた。
花畑を咲かせたときも。あの模擬戦で魔術を崩したときも。そして今も。
師匠は、あの「銃」を、一度も人に向けたことがない。
六日目の夜、わたしはなかなか寝つけなかった。
与えられた客間のベッドはふかふかで、窓の外では虫が控えめに鳴いている。サリナさんいわく「虫も許可制」なので、きっとこの鳴き声も許可された分だけなのだろう。そう思うとちょっと面白い。
明日でここを出る。そう思うと、胸のあたりがそわそわして落ち着かなかった。
寝間着の上にカーディガンを羽織って廊下に出る。壁の本棚の背表紙が、窓から差す月明かりで青白く光っていた。階段を下りると、居間の奥、テラスへ続く硝子戸が少しだけ開いている。
夜風に乗って、紅茶の香りがした。
「……師匠?」
テラスの手すりに肘をついて、師匠が森を眺めていた。手には湯気の立つマグカップ。わたしの声に振り向くと、少しだけ目を丸くする。
「なんだ、まだ起きてたのか。明日は早いぞ」
「師匠こそ」
「俺は大人だからいいんだよ」
「理屈になってませんよ」
師匠はふっと笑って、テラスに置かれた小さな椅子を顎で示した。座れ、ということらしい。わたしが腰を下ろすと、師匠は空いている手でひょいと指を振った。何もない空中から湯気の立つマグがもうひとつ現れて、わたしの手元にふわりと降りてくる。
「わ……ありがとうございます」
「ストレートだぞ。砂糖はやらん。知り合いにうるさい奴がいてな、癖になっちまった」
一口すすると、少し渋くて、でも身体の芯まで温まる味がした。
しばらく、二人とも黙って森を見ていた。月に照らされた畑の向こうで、川面がきらきらと揺れている。サリナさんが「拾った」と言っていた川だ。
「……あの、師匠」
「ん」
「相棒さんとのこと、もう少しだけ聞いてもいいですか」
師匠のマグを持つ手が、ほんの一瞬止まった。
「レイラさんから少しだけ聞きました。師匠より強くて、自由な人で。……それで、二人で、守れなかった人がいるって」
言ってから、踏み込みすぎたかと思った。けれど師匠は怒らなかった。手すりに置いた右手の指先で、こつ、こつ、と木を叩く。何かを数えるように。
「……ああ。いたよ。ちっこい女の子だった」
師匠の声は静かだった。
「あいつが一番大事にしてた子でな。貴族の馬車の前に飛び出しちまった、ただそれだけのことで――まあ、そこから先は言わなくてもわかるだろ」
わたしは何も言えずに、マグを両手で包んだ。
「俺はあの時、あいつの隣にいた。いたのに何もできなかった。デビル・ハンターなんて大層な力を持ってても、届かなきゃ意味がねぇ」
こつ。師匠の指が止まる。
そして、その右手がゆっくりと握りしめられた。保健室で、黒板の前で、この世界が間違っているとでも言うように拳を握ったときと同じ形に。
「だからな、ニーア。俺はもう二度と、目の前で誰かが理不尽に奪われるのを見たくねぇんだ」
「……はい」
「で、だ」
師匠は拳をほどくと、くるりとこちらに向き直った。月明かりを背負って、表情がよく見えない。
「お前、あのセルジーネ嬢とはどういう仲だ」
「えっ? フィアットさん、ですか?」
思いがけない名前に、わたしは目を瞬かせた。
「どういう、って……転校してきて、席が隣になって、友達になってくれて……。昔、容姿のことでいじめられて学校に通えなかったって言ってました。だからわたし、守ってあげなきゃって」
「……そうか」
師匠は顎に手を当てた。検索の仕草だ。わたしの背筋が、なぜかすっと冷えた。
「あの手合わせのとき、あいつが使った幻術を覚えてるか。お前の目の前にお前自身を立たせたやつだ」
「は、はい。シャフトチェンジ……だったと思います」
「あれはな、学生が教科書で覚えられる術じゃねぇ。式の組み方に癖がある。……今の国王が若い頃に編んだ、王家の幻術の癖だ」
「国王陛下の……?」
「セルジーネは確かに名家だが、王家の門外不出の術をほいほい教わるような家じゃねぇ。それに、あの魔力だ。抑えてはいたが、俺には見えた。あれは学生どころか、宮廷魔術師団の隊長格でも足元に及ばねぇ」
師匠の声には、怒りよりも冷たいものが混じっていた。
「そんな化け物が、学期の途中で、わざわざハブられ分館の授業があるSクラスに転入してきた。しかも初日に、お前に手合わせを申し込んだ」
「それは……わたしが隣の席だったから……」
「フォルト家の契約魔術は、国の公文書に使われてる。条約、勅令、貴族同士の誓約書。あれに細工できる人間がいたら、この国の根っこを握れる。……喉から手が出るほど欲しがる連中は、いくらでもいるんだよ」
わたしは言葉を失った。
そんなこと、考えたこともなかった。わたしの家の魔術はただの「書類に使う地味な魔術」で、わたしがそれを使えないことだけが悩みだった。誰かに狙われるかもしれないなんて。
「で、でも……フィアットさんは、そんな人じゃ……」
声が震えた。初日の教室で、困ったように笑ったフィアットさん。初等部の子たちと楽しそうに話していたフィアットさん。手合わせのあと、保健室までついてきてくれたと後から聞いた。
「……だといいな」
師匠はそれだけ言って、マグの紅茶を飲み干した。
「ほう。夜更かしの師弟とは、仲のよいことじゃ」
背後から声がして、わたしは椅子から飛び上がりそうになった。
振り返ると、硝子戸のところにサリナさんが立っていた。寝間着姿で、腕には毛布を一枚抱えている。
「サ、サリナさん……いつから」
「さあの。小娘、冷えるぞ。ほれ」
ふわりと毛布が肩にかけられる。ほのかに陽だまりの匂いがした。サリナさんはそのままわたしの隣の手すりにひょいと腰かけ、足をぶらぶらさせながら師匠を見上げた。
「のう、アルス」
「……なんだよ」
「おぬしが教えた契約魔術。線を越えた者を凍らせる、あれじゃ」
サリナさんは、テラスの床板の継ぎ目を、裸足のつま先でつうっとなぞった。一本の線を引くように。
「線を引くのは勝手じゃ。じゃがの、目に見えるものだけで引いた線は、越えた者を凍らせるだけでは済まぬ。引いた本人の足まで凍らせることがある」
師匠の眉がぴくりと動いた。
「……お前、あのセルジーネの娘について何か知ってんのか」
「あやつの幻術の癖ならよう知っておる。アークの小僧のじゃろ。あれはわしの茶飲み友達じゃからの」
「だったら――」
「じゃが、王家の術を学んでおる娘が皆悪党なら、この国はとうに滅んでおるわ」
サリナさんはにやりと笑った。師匠は苛立たしげに頭を掻く。
「答えになってねぇ。知ってることがあるなら言え」
「知っておっても、わしの口から言うことではない」
きっぱりとした声だった。冗談の色は、どこにもなかった。
「おぬしがその目で確かめよ。……ただし、確かめる前に撃つでないぞ」
師匠は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。サリナさんはひょいと手すりから飛び降りると、わたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「さ、寝るぞ小娘。明日の朝はおぬしの最後の菓子じゃ。寝不足で焦がしたら許さんからの」
「は、はい……」
居間へ戻る途中、一度だけ振り返った。
師匠はまだテラスにいた。手すりにもたれたまま、右手を月にかざして、ゆっくりと親指を立てて――そして、何も探さずにそのまま下ろした。
◇
七日目の朝。わたしが焼いた最後のお菓子は、苺のタルトだった。
サリナさんは一口目で目を閉じ、二口目で「ふむ」と唸り、三口目で何も言わなくなった。そして全部食べ終えてから、ようやく一言。
「合格じゃ」
それだけだった。でもわたしには、どんな褒め言葉よりも重かった。
玄関先で、サリナさんは一冊のノートをわたしに差し出した。深い緑色の革で装丁された、手のひらにしっくり収まる大きさのノート。
「これは……?」
「おぬし、大事にしておったノートを一枚破ったそうじゃな。クソガキから聞いた」
思わず師匠を見る。師匠はあらぬ方向を向いて、頬をぽりぽりと掻いていた。
「破った頁は戻らぬ。じゃが、新しい頁は書ける。……書け。ここで学んだことも、焦げたマドレーヌのこともな」
「……っ、はい! ありがとうございます、サリナさん!」
「大師匠と呼べと言うておろうに」
「大師匠!」
「うむ!」
サリナさんは満面の笑みで胸を張った。それから、少しだけ声を落とす。
「ニーア。最後にひとつだけ」
「はい」
「おぬしの友を、おぬしの目で見よ。誰かの言葉ではなく、の」
昨夜のテラスでの会話が頭をよぎった。わたしは毛布の陽だまりの匂いを思い出しながら、しっかりと頷いた。
迷わぬ道を引き返し、境界を越えた瞬間、空気が変わった。肌にまとわりつくような森の湿気。どこか遠くで鳴く魔物の声。振り返ると、さっきまであったはずの小径はもう跡形もなかった。
「本当に……一日しか経ってないんですか?」
「寮に帰って新聞見てみろ。腰抜かすぞ」
師匠の言った通りだった。
寮の談話室に置かれた王都新聞の朝刊。その日付は、わたしが森へ入った翌日のものだった。七日分の朝ごはんを食べて、七日分の卵を割ったのに。わたしの手のひらにはまだ、バターの匂いが残っているのに。
指先を見つめる。卵を割るときの、最初の一押しだけの感覚。泡立て器の拍。焦げたマドレーヌの苦さ。世界と結んだ約束。
全部、この手にちゃんと残っている。
「……試験まで、あと六日」
わたしは新しいノートの一頁目を開いて、ペンを取った。
一行目に書いたのは、魔術の式ではなかった。
──『フィアットさんに、お守りを作る』




