わたしは先生に導かれたい 後編-1
放課後の夕焼けが射し込む廊下。ハブられ分館の保健室の前の手すりに私は腰掛け、息を吐く。
「まったく。聞いてた話と違ってちゃんとやるところはちゃんとやるじゃない。はぁ~あ、思ったよりサクサク進み過ぎて試験日まで暇ね....あら、あなたは...」
「こんにちは。セルジーネさん。今日はあなたに話が合ってきたの。あなたのその魔力についてね。」
目の前の少女を前に一瞬フィアットの顔が曇る。が、すぐに平然とした顔を取り繕い、いつでも目の前の存在を消すことができるように無詠唱で魔術を起動した。
廊下の窓の縁に指を滑らせる。
「私のことはフィアットで構わないわ。たしかあなたは同じクラスの...イザベラ公爵家の...?」
「では私のこともリリーで構わないわ。それで、あなたはいったい何者なの....?わたしは腐ってもこのSクラスでトップの成績を取っている。それでも私の直感があなたのことを『危険だ、逃げろ』と警戒しているの。」
「さぁ?私にはいったいなんのことかわからないわ。」
「ッ!あなた、わたしをばかにしてるの...ッ?」
激高しかけている彼女から視線を外し、わたしは手すりに腕ごと腰掛けた。そして息を吸い少し宙を眺めた後含みを持たせた笑顔でリリーを見つめる。
「腐ってもあの人の分家なのね。」
わたしの言葉に彼女はその発言を聞くなり顔つきを変え、今にも私を殺そうとでもする視線を向ける。
「あなたッ...その言葉の意味を理解しているの?私はこの国の公爵よ....ッ!!」
「あらごめんなさい。でも私の知り合いにとっても魔術の上手い人がいるの。私の敬う人は彼女一択よ。残念ながらあなたじゃないわ。それと....」
静かに激高する彼女を尻目に私はくるっと後ろを振り向き、制御していた魔力を解放する。
「今現状、私に勝てる人間は『頂天者』の家系と、私の幻術の師である旧幻術帝くらいよ。」
「.....ぁ.....っぁ......ぁぁ....」
彼女の瞳には少女の形をした異形の化け者が写っていた。
私は解放した魔力を再び制御し抑えたのち、足がすくんで動けない様子の令嬢に手を差し伸べるが手を取らないので戻した。
「もし私と力比べをしてみたいのであれば、また私にお声をかけてくださいな。今回は諸事情合って手を抜きましたが、あなたとお手合わせするときは私が持っているすべてを出すと約束しましょう。」
夕日が射し込む廊下にコツコツと歩く足音だけが鳴り響いた。
あれからアルス先生はわたしが泣き止むまでそばにいた。わたしが抱えているものは悩みも含めてすべて打ち明けた。わたしの求める魔術しかり、家族のこと。わたしのことも。成り行きでレイラさんの従者となったことも。
わたしのめちゃくちゃな言葉もアルス先生はうんうんと頷きながら聞いてくれた。
「師匠、これからどうしましょう....わたしはいったい何から始めたらいいのかさっぱりで。」
「なぁニーア、いったん離れてくれないか?....あの、なんだ、この体勢は色々と思うところがあってだな…」
「イヤですっ!」
「あの、いやですじゃなくて….いいのか襲っちまうぞ…」
「ん!」
師匠は正面から抱きつくわたしをひっぺがそうと抵抗していたがそれは虚しく失敗し、ついにはお手上げだと言わんばかりの表情を浮かべながら両手を上げた。
「はっ、まぁいいか。で、ニーア。お前は一体何を求めて俺の指導を受けようってんだ?やっぱさっきお前が話してくれた血統魔法のための継承魔術か?」
「師匠はなんでもお見通しなんですね。ズバリ言ってしまえばそうなんですが。本題はそこじゃあありません。なんで私はフォルト家に生まれながら自分がその魔術を行使できないのかがわからないんです。」
これはほんとうの事。実際私は何度か自分の家に代々伝わる魔術を行使しようとしたが今までで一度も発動することはなかった。
自分で言うのはなんだが一般教養魔術はこよなく行使できる。ただ、その魔術のみ全く駄目だった。
「確かフォルト家の魔術は…っと、あった。付与魔術、か。紙に魔術の属性を付与させて作用させる。違いないな?」
「は、はい!そうです!主に王国内外の公的書類に術式を付与して使う、一種の契約魔術を専攻しています!....先生のそれ、本当に便利ですね。」
師匠は顎に手を当てているだけ。でも今ならそれが先生のトリガーだとようやく分かる。魔術を探している。今までを振り返ってみてもそうだ。私がフィアットさんに敗けたときも師匠は物珍しそうに同く顎に手を当てていた。....初回の授業のときも師匠は教室の教卓に物憂げに座っていた。
「まぁな。で、話は戻すがお前はどうしうたい?」
「どうしたい...とは?」
「俺のこの力があれば今すぐにでもその魔術を叩きこむことはできる。でも、本当にそれでいいのか?」
「絶っっ対に嫌ですッ!!まだ師匠に正しい魔術の使い方を教わってませんので!」
師匠はわたしの言葉に笑顔をみせ、笑った。そして人差し指を前に差出した。
「じゃあニーアに質問だ。お前が習ってきた魔術はどうやって発動するんだ?」
「え、えと、まず初めに自分が使いたい術式の属性を決めて、次にその属性に合う術式を描く。このときの描く媒体は自分の頭の中でも、外部の道具でもかまない....あと、描き終わり次第、自分がいま描いたものに魔力を流す....ってところですか...?」
「たしかに、そうだな。でも、その説明だと足りていない。」
師匠はにこりと微笑んで私をベッドに座らせ、空間に魔術で創ったボードに書き出した。そこに書かれていたのは
「これは、魔術三原則...?」
「そうだ。これは、『魔の法律は己の隣に』つぎに、『魔術の火種は身にあらず』最後に、『魔術の境は見えず』...正直こんな古臭いいつできたかもわかんねぇわ、昔のじーさんばーさんどものセリフには意味はないと思うかもしれねぇ。」
「よく知っています。国民が初等教育を受ける際に標語として教わります。意味自体はあまり....」
「いや、それでいい。俺はこの言葉の意味を知っている。知りたくもなかったんだがな。ところでなぁニーア、ときに魔術と魔法の違いは何だ。簡単でいい。説明してみろ。」
「は、はいっ!魔法は精霊など自身の魔力を消費しない、いわゆる自然現象に干渉するもので、魔術は魔法の力を自身の魔力を用いて疑似的に表現するものです!」
師匠はわたしの答えをきくなりうんうんと頷き、再びボードに記述していく。
「いまお前が言ったことで『基礎』はできているな。教科書通りの。でも、ひとつ見落としているところがある。だがしかしここで言う魔法は魔の法律のことを示す。『魔の法律は己の隣に』ときに真面目なお前の認識だとこの言葉は『魔術は行き過ぎると自分の首を絞める』となっていそうだ。違うか?」
「そ、そうではないのですか...?私はてっきり魔術師を目指すうえで常に念頭に置くべき標語だと...」
「残念ながらそんな大層なモノじゃねぇんだ。このアルフの右腕がのこした言葉は。...ガーっ、どこで教えを間違えちまったんだろうな、あのババア。」
師匠は髪をわしゃわしゃと掻きながらバッテンをつける。
「正解は、『魔の法律は誰でも敷くことができる』だ。お前は精霊魔術を見たとき、不思議に思わなかったか?何であんな強力な威力のモノばかりなんだ?って」
言われてみればそうだ。初等部、中等部、それからいまに至るまでに多くの精霊魔法使いを見てきた。彼ら彼女らが扱うモノはすべて、通常の魔術師のそれよりもはるかに高出力であった。中には代償を伴うが一つ街を滅ぼせるのではないかと思えるほど強力な術を行使する者もいた。宮廷魔導士の中には精霊魔法使い専門のチームがあると聞く。そして、彼らが魔術を行使した際に一定の魔素の残留がでるくらいだ。
「たしかに....盲点でした。では、魔術師とは違う魔術体系を持っているからというのは、不正確な情報だったのですね...」
「....ッ!?ニーアおまえ、そこまで気づいたのかっ!お前はつくづく優秀だな!そうだ。ここで大事になってくるのはそれは本当に魔術なのか?という問題だ。」
「彼らの使う魔術は厳密には魔法、に分類されるのでしょうか?」
「そうだ。彼らは現にそうやって一帯を雪に変え、火を芽吹かせ、嵐を呼び、瘴気を帯びさせたりして現実の天候を改変している。十分にその場においてのこの世の『摂理』を掌握し、改変している。と、言えるだろう。」
そこでふと疑問が浮かんだ。体系が違う『魔法』でない『魔術』は『魔の法律』を敷くことができるのか?と。
「多分お前は『魔法』じゃない『魔術』でもそれができるのか?って考えたな。正解はイエスだ。時に、魔術の階級分けについてどう思う?」
「はい、ある程度は。1~9階梯にあたるのが簡単な事象、魔力の使用量が生活の範囲内だといわれるもの、10~20階梯が魔法師が使う軍事的な魔術。つまりは攻撃性の高い魔術です。えと、その先にある21~29階梯はほんの一握りの魔術師たちがたどり着く魔術の境地ですっ!えとえと、最後に30階梯、つまり最終階梯は使用者は歴史に残っていませんがあるといわれているまじ...」
「はいはいだいぶわーった、わーった。長々と解説ご苦労さん。まぁまぁそんな感じで分かれてるわけだ。これもまただいたいお前の認識通りなんだが、1つだけ間違いがある。」
師匠はボードにまた一つバッテンをつける。それは、
「残念ながら階級分けに意味は全くない。『21~29階梯はほんの一握りの魔術師たちがたどり着く魔術の境地』だったか?そこからすべて、『魔法』だ。しかもこれが『魔術の境は見えず』だ。」
「『行き過ぎた魔術は魔法と区別がつかない』...旧サロバニア王国第2王女アリアーヌの書記にも残されていた文言です。古文で習いました。」
「世間一般で言うここから先の魔術を使う者たちはみな絶対に切り離せない想いを持っていた。『魔法』なんて、そんな想いが原因でポンと発動してしまうモノなんだ。例えば、そうだな。これはどうだ。」
師匠はボードから少し離れて机の上に置いてあったチラシを手に取った。
「あぁ、俺はここに誓う、言の葉よここに刻め....」
師匠のそばから紅い魔力があふれる。紅い煙が口からふっと吹きでる。するとどうだ、そのチラシに紅い刻印が押された。その光景をみた瞬間、自分の追い求めたモノが、すべてがつながった。
わたしに先生は「ん」とそのチラシを押し付ける。私が魔術を流すとそのチラシは燃えて消えていった。
師匠は口元の煙をシャツの袖で拭う。
「ようやくわかったか。お前の求めたそれは『魔術』なんかじゃない。『血統魔術』なんてものは最初っからなかったんだ。」
「そして『血統魔術』などと呼んでは自分たちを縛る。この国の貴族たちはこれを絶対に発動させないといけないと自分に誓うんだ。そうやって想いを固めてその魔法を形にする。残念なハナシだが結果的に『継承されている』と勘違いを起こすってワケだ。魔法の性質上、想いに呼応するのは当然であって、ごく当たり前、自然の摂理だ。」
チョークを雑に置き、教卓に腰掛けて手をひらひらとさせながら、天を仰ぐ。
「...だから『血統魔術』はうまく発動するがほかの魔術に関してはからっきしとなる。魔術の奥底に眠る意味に気付かないままそれを行使する。ゆえに何もわからない。なぜならばそれは『魔法』になってしまっているから。」
師匠は強く右手を握りしめる。まるで、この『この世界は間違っている』とでも言うように
「要は....どう説明したもんかな。あぁ、あれだ、『気を抜け』か?そんなところだ。あと付与、もとい契約魔術の式はこうだ。」
ボードにチョークを走らせる。師匠の描く魔術の式はやはり美しかった。無駄がなく、誰よりもわかりやすい。高尚ないわゆる"先生"が教えるような難しい言葉は使わない、皆のためにと最適化されたこの図解付きの式を眺める。レイラさんは言っていた。彼ほど魔術に精通した人間はそういないと。
「まぁこんなところか。もう、お前もわかってんだろこの先は。」
わたしは、「はいっ!」と元気よく返事をして今まで大事にしていたノートから1枚破り、その魔術の名を叫ぶ
「ッおい、おまえ....そのノートはっ!」
「これでいいんですっ!第26階梯 pact oath flare...!!」
その紙にはわたしの家の紋様が刻まれた。それを掴み、魔力を流すと、その紙は燃えるのみで燃え尽きることはなかった。わたしが魔力の供給をやめるとふっとその炎はなかったように消えた。
師匠はやれやれとため息をつきながら、でも笑いながら
「おめでとう。」
と、一言だけの、最大の誉め言葉わたしへ送った。
あれから一週間が経った。わたしは毎日のように師匠の講義を受け、実践を繰り返した。
「なぁニーア、おまえ結構大食いなんだな」
「う、うるひゃいですよ師匠……しかたないじゃないですか、んぐ。だってこれ、おいしいんですもん!」
「レッドボア三匹をぺろりとは、俺も予想してなかったわ。まあでも慣れてきただろ?」
「さいしょはダメダメでしたけど、三日もすれば慣れました!」
そうして北の魔の森を進んでいた。ここは王国屈指の迷いの森と呼ばれる危険地帯だ。師匠いわく「ここ以外は強いモンスターが少ない。鍛えるならここが一番」らしい。
「いやー懐かしいな。俺は相棒と昔よくここで遊んでたんだ。今ごろあいつ、何してんだろな~」
「レイラさんから聞いた限りだと、普通に学生やってるみたいですよ。……あ、レッドドラゴンです」
「学生か! 息抜きできてるなら何よりだな。……っと、そいつは単発高火力に弱い。一発で仕留めろよ~」
「相棒さんって、どんな人なんですか? わたし、一度も会ったことがなくて……!
第24階梯 fictional ice!」
「まあ、自由なやつだ。俺がもう勝てないくらい強い」
友人の話をする師匠の瞳には、どこか安堵があった。わたしも、学校をサボって誰かと過ごしている実感が少しずつ湧いてきて――その瞬間だった。
────「最終階梯 absolute《消え失せる》 zero《世界》」
「ッ!! 伏せろ、ニーア!!」
「はいッ!」
反射的に防御魔術を展開する。でも、間に合わない。
結界が一瞬で裂け、わたしは衝撃に押されて身体ごと吹き飛ばされた。
「……っ、いた……」
視界が揺れる。息を整えようとした、そのとき。
「させねぇぞ……ッ!!」
師匠の紅い煙が弾け、わたしへ迫っていた氷の槍を握りつぶした。
「おいおい、これはどういう了見だ……あ゛ぁ゛っ!?」
師匠の視線の先に――小さな少女がいた。
ローブに身を包み、杖を持って、平然とこちらを見ている。
少女が杖を「カンッ」と地面に突くと、周囲の雪がすっと溶け、森がみるみる本来の色に戻っていった。
「まぁ落ち着け、アルスよ。わしはそちらの力を試しただけじゃ。そう怒るでない」
「あ゛ぁ!?」
「どうどう。ちと悪かったとは思っておる」
少女はフードを上げ、片手で「ごめん」とでも言うようにひらひらさせた。
――顔、かわいい。いや、かわいすぎる。
「……!? ふ、ふん。その程度か。おぬしの弟子なら耐えられると思ったが、予想外じゃった。すまぬな、小娘」
「こ、小娘!? わ、わたしが? ……って、あれ。話せる。……傷、ない……?」
少女がわたしの近くに来て、頭をわしゃわしゃ撫でる。
「よい目を持っておるの。愛い奴め。ほれ、飴じゃ」
「あ、ありがとうございます……」
気づけば打撲も擦り傷も消えていた。さっきまでの衝撃が嘘みたいだ。
師匠の紅い煙も、いったん収まっている。
「それで、だ。のうアルス。こやつから貴族の匂いがするのは何じゃ? わしへの当てつけかの?」
「やれやれ。今日のところはニーアに免じて許してやる。……残念ながら当てつけじゃない。今回は事情が違う」
「ほう? 追放でもされたか? そうでもなきゃ、お主がこんなところまで連れてこんじゃろ」
「ちがうちがう。今回ここまで来たのは場所を貸せってこった。しかもこいつは、お前じゃなくて俺に魔術を教えろって言ってきたんだ。」
「ぬ……?」
師匠が言い切った瞬間、少女の顔色が変わった。
「ぬ!? ば、場所云々は置いておくにしても、こ、こ、こ、小娘はわしではなく、このクソガキに教えを乞うたじゃとぉ!?」
「あ、えと、その……わたし、昔いろいろあって師匠のことを知ってまして……」
「えぇい! なぜじゃ! わしではダメかの!? あのクソガキのどこが――顔か!? それとも――」
「バチコンッ!!」
「あいたっ!?」
目線をその場所へとうつるや否や師匠が容赦なく少女の頭をはたいた。
「おい。余計なことをニーアに吹き込むな。クソババア」
「だ、誰がクソババアじゃ! わしは可憐なる少女じゃぞ!」
「自称するな。あと杖ついた時点で説得力が死んだ」
師匠がため息をつくと、少女――サリナは頬を膨らませた。
見た目はどう見ても少女なのに、態度だけは堂々たる年長者。ほんとに意味が分からない。
「……あの。えっと。師匠、この方は……?」
「サリナ・アーネット。うちの……いや、昔の師匠みたいなもんだ」
「? つまり師匠の師匠……?」
「うむ。わしの弟子がこのクソガキ――」
「クソガキ言うな」
「――まあよい。つまりわしは“大師匠”じゃ。敬え」
サリナは胸を張る。かわいい顔で。
「敬うのはいいけど、まず先に言っておく。ニーアに手を出すな」
「出しておらぬ! ちょっと試しただけじゃ! 弟子の出来が気になったのじゃ!」
「“ちょっと”の規模じゃないだろうが」
師匠がジト目で見ると、サリナは目を泳がせた。
「……む、むう。反省はしておる。飴もあげたし」
「飴で全部チャラにするな」
わたしは飴を握りしめたまま、恐る恐る口を開く。
「えっと……サリナさん。すみません。わたし、師匠に教わりたくて……でも、サリナさんがいるなら、ちゃんと挨拶しないといけないって師匠が……」
「うむ! そこは褒めてやろう。礼儀は大事じゃ」
サリナは満足そうに頷いた――直後、にやりと笑う。
「では、質問じゃ。小娘。おぬしは“何を”身につけたい?」
「え……? えっと、契約魔術……付与魔術の実践と、あと……失敗しないための基礎を……」
「ふむ。欲張りじゃな」
サリナは杖の先で地面に小さな円を描いた。
すると土がふわっと持ち上がり、簡単な“黒板”みたいな板ができる。
「よいか。基礎は大事じゃ。だが基礎だけでも退屈じゃろう」
「はい……正直、ちょっとだけ……」
「正直者は好きじゃ!」
サリナがにかっと笑って、師匠を見る。
「アルス。今日だけはわしも付き合ってやる。弟子の弟子が泣くのは趣味ではない」
「お前、さっき泣かせかけた側だろ」
「うるさいの。そこは反省しておる」
サリナはわたしの前にしゃがみこんで、目線を合わせた。
サリナはわたしの前にしゃがみこんで、目線を合わせた。
「よいか、ニーア。わしは“教えてやってもよい”。ただし条件がある」
「条件……?」
「わしを“ババア”と呼ぶのは禁止じゃ。可憐な少女じゃからな」
「……はい。見た目は……少女ですし……」
師匠が横で「納得すんな」と顔をしかめる。
サリナは咳払いを一つして、もう一本指を立てた。
「もうひとつ。――わしに毎日、美味い菓子をつくること」
「えっ、そっち!?」
サリナは得意げに胸を張る。
「当然じゃ。修行には糖分が必要じゃからな。あと“かわいい師匠”の機嫌も良くなる」
「師匠の機嫌を菓子で管理するな」
「管理ではない。健康管理じゃ」
師匠のツッコミを軽く流して、サリナは満足げに頷いた。
「よし。交渉成立じゃ。では今日のところは、一つだけ“コツ”を授ける」
「コツ……?」
「うむ。――“焦るな”。魔術は焦ると形だけになる。形だけになると、必ず事故る」
サリナの声は軽いのに、言葉だけは妙に重かった。
師匠も珍しく口を挟まない。
「……さっきみたいなこと、ですか?」
「うむ。だからまずは呼吸じゃ。呼吸が乱れたまま術式を組むな。おぬしは真面目で、頑張りすぎる」
胸がきゅっとなる。図星だ。
「……はい」
「よい返事じゃ」
サリナはすっと立ち上がり、杖を軽く鳴らした。
「では行くぞ」
「……どこに、ですか?」
「決まっておる。わしの家じゃ」
わたしが目を丸くすると、師匠が小さく頭をかいた。
「……ここ、迷いの森のど真ん中にあいつの家があるんだよ」
「えっ!? 森の中に家……?」
「ある。しかも普通に住める。普通に暮らしてる。いろいろおかしいが、気にするな」
サリナがにやりと笑う。
「ちなみにじゃが、そこはわしのバカ息子の家でもあるの。」
「え……? バカ息子……って、あの――」
「おい。説明はあとだ。ニーア、混乱してるだろ」
「いや、混乱させてるのはお前らだ」
師匠が半眼になる。
サリナは杖の先で地面をとん、と叩いた。
「ほれ。迷いの森は“迷わせる”から厄介なのじゃ。なら、迷わぬ道を用意すればよい」
「用意すんな」
「用意する。わしの家に帰るのに迷ってたら恥であろう?」
杖の先から淡い光が広がり、木々の間に一本の道が浮かび上がった。
さっきまで確かに存在しなかったはずの、まっすぐな小径だ。
「さあ、孫弟子。歩け」
「ま、まごでし……!?」
「嫌なら今ここでまた試すが?」
「嫌です! 孫弟子でいいです!」
「よろしい!」
師匠が頭を抱える横で、サリナは満面の笑みだった。
わたしは飴を握りしめたまま、その“迷わぬ道”の一歩目を踏み出した。
迷わぬ道を歩き始めて、どれくらい経っただろう。
さっきまでの森の圧がふっと薄れ、空気が軽くなる。木々の隙間から光が差し込み、足元の土も、じめじめした泥から乾いた踏み心地へ変わっていった。
「……え、なにこれ。森、急に“整って”ません?」
「気づいたか。ここから先は“境界”だ。サリナの縄張りみたいなもん」
「縄張りって言うな。本人が聞いたら喜ぶぞ」
「喜ぶだろうな」
師匠が嫌そうに言った瞬間、前方が一気に開けた。
――見晴らしが、いい。
森の中とは思えないほど視界が抜けていて、なだらかな丘の先に川が見える。水音がはっきり耳に届く距離。川辺の石は白く、陽に照らされてきらきら光っていた。
「うわ……綺麗……」
「拾ったの、あそこじゃ」
サリナがさらっと言う。
「ひ、拾った……?」
「ハストじゃ。川で流れてきたのを拾った。ついでに洗った」
「ついでに洗うな」
師匠が即ツッコむけど、わたしの頭はそれどころじゃなかった。
川沿いに広がる土地――畑が見える。作物が整然と並び、しかも雑草が一切ない。さらに奥には柵があって、その向こうに家畜……あれは、羊? 牛? やけにお行儀よく並んで草を食べている。
「え、ここ……生活してる……?」
「当然じゃ。腹が減るじゃろう」
「生活の規模が学園の教材レベルじゃないんですけど……」
畑の端には小さな水路が引かれ、川から水が流れている。風に乗って土の匂いがして、なぜか安心する匂いがした。けれど、その安心感と同時に――この空間の“妙な整い方”が逆に怖い。
「これ、全部……魔術で管理、ですか?」
「うむ。完全管理じゃ」
「完全管理……」
「虫も病気も“許可制”じゃ」
「許可制……?」
師匠が乾いた声を出す。
「ニーア、深く考えるな。考え出すと戻ってこれない」
「戻ってこれないって何ですか!」
サリナは楽しそうに笑って、坂を上るように歩き出した。
そして、丘の上に――それが現れた。
森の洋館。
いや、洋館……という言葉で片付けていいのか分からない。白い壁に濃い屋根、縦長の窓が規則正しく並び、蔦が絡み、庭はきちんと手入れされている。
隠れ家、と呼ぶには大きすぎる。
「……でっか」
「でっかいじゃろ」
「隠す気あるの?」
「ある。あるが……見つけられんから問題ない」
「理屈が暴力すぎる」
洋館の横には、別棟がある。煙突が伸びていて、外壁に焦げた跡がある――工房だ。金属の匂いと、薬草っぽい匂いが混じった、独特の空気が漂ってきた。
「工房……ですか?」
「うむ。壊すのが得意な者は、直すのも得意にならねばならぬ」
「それ、誰の教えですか?」
「わしの」
「自分で言うな」
サリナが玄関前で振り返り、にやっと笑う。
「ようこそ、ニーア・フォルト。ここがわしの家じゃ。――そして今日から、おぬしの修行場でもある」
「……はいっ」
返事をした瞬間、師匠が小声でぼそっと言った。
「……帰りたい」
「師匠!?」
「嘘だ。半分だけな」
サリナは扉に手をかざす。鍵の音もなく、扉がふわりと開いた。
中は、木の香りがした。あたたかい。石造りの床なのに冷たくない。魔術で温度が一定に保たれているのが分かる。
「す、すごい……」
一歩入った瞬間、目に飛び込んできたのは――本。
本、本、本。
壁一面の棚に、背表紙の色も大きさも違う魔術書がぎっしり詰まっている。廊下にも、階段の踊り場にも、卓の上にも、本。しかも古い本だけじゃない。新しい装丁のもの、手書きで綴じられたもの、紙質が見たことないものまである。
「……これ、全部……」
「全部、魔術の本じゃ」
「量が……図書館……」
棚の一つに目をやると、見慣れない言葉が並んでいる。古文とも違う。符号みたいな記述のページもある。
「これ、読めるんですか……?」
「読めるから置いてある」
「置いてある理由が強すぎません?」
師匠が肩をすくめる。
「ニーア、あんまり勝手に触るなよ。ここ、下手すると“まだ世界で発見されてないやつ”が普通に混じってる」
「発見されてない……?」
「発表してない、のほうが正しいがの」
サリナがさらっと言って、わたしの肩をぽんと叩いた。
「この家はな、知りたい者にだけ、知る資格を与える。……まあ、わしが気分で決めるが。」
「気分なんだ。」
「相も変わらずいい加減だな、お前は。」
師匠が呆れた声を出すと、サリナは胸を張る。
「当然じゃ。世界はわしの気分に優しくできておる。」
「そういうとこだと思います!」
廊下の先から、ふわっと匂いがした。焦がしバターみたいな、甘い匂い――台所の匂いだ。
「台所、普通にあるんですね……」
「ある。飯は大事じゃ。菓子はもっと大事じゃ。」
「……そういえば、条件を思い出してきました。」
「よし。では今から作れ」
「今から!?」
サリナは満足そうに頷き、わたしを台所へ案内し始める。
「安心せい。材料は畑から取れる。家畜もおる。牛乳も卵もある。全部管理されておる。」
「管理って便利だな……」
「便利じゃ。だからおぬしは毎日、美味い菓子をつくるのじゃ。」
「わ、わかりました……!」
師匠が頭を抱えながら言う。
「……ニーア、無理するな。作れない日は俺がなんとか……」
「おぬしは口を出すな、クソガキ」
「誰がクソガキだ」
「クソガキじゃ」
「認めない」
サリナと師匠の言い合いを聞きながら、わたしは台所の入口で立ち止まった。
台所は、普通だった。
鍋、まな板、棚、食器。生活の気配。さっきまで魔術の本に圧倒されていたのに、この“普通さ”が逆にホッとする。
――でも。
台所の壁の隅に、さりげなく掛けられている、見たこともない器具。
工房からかすかに響く、金属を打つ音。
そして、廊下に積まれた、未知の文字の魔術書。
ここは“普通”の家じゃない。
「……ニーア」
師匠が、わたしの横に立つ。
「怖いか?」
「……ちょっとだけ。でも……」
わたしは、棚に並ぶ砂糖の瓶を見た。
「……勉強できる場所っていうのは、わかります」
「そうだな」
サリナが振り返り、にやりと笑う。
「クソガキだけの授業だけだと、つまらんじゃろう。ここらでわしから。まず一つ目の授業じゃ。――菓子作りをせい。わしのために、じゃ!」
「魔術じゃない!?」
「菓子作りは魔術じゃ」
「違いますって!」
師匠が小さく笑った。
「……まあ、ここではそれも“魔術”扱いになるんだろ」
「はい! わしの家ではな!」
サリナが腕を組み、えらそうに頷く。
「さあ、孫弟子。まずは卵を割れ」
「はいっ……!」
――こうしてわたしの修行は、なぜか台所から始まった。




