↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/32

第9話 (幕間)琥珀色の古酒

1. 旅立ち


 港の喧騒に満ちたフリーヘイヴンとは違い、キャンプ地には静かな夜が流れていた。パチパチと爆ぜる焚き火の不規則な音だけが心地よく響いている。昨日まで聞こえていた、遠くで打ち寄せる波の音、それに混じる酔客たちの笑い声やバイオリンの陽気な音色は、今はもうない。だが、静かな月明かりの下で過ごす彼らは、これまでになく希望と期待を抱え、まだ見ぬ風景に胸を躍らせていた。


 エリーゼはクレイから受け取った「残響の琥珀」を月光に透かし、その琥珀色の輝きを満足げに眺めていた。ドレスの汚れは街の洗濯屋で落としたものの、心に刻まれた「ジャガイモお嬢様」の屈辱だけは、そう簡単には消えそうにない。


「……ま、終わりよければすべて良し、ってことにしてあげるわ。この琥珀さえあれば、あんな家畜運搬船に乗らなくても瞬時に移動できるんですものね」

「でも、記憶するって言ってたぜ? 過去に行った場所じゃなくて、これから行く所ならってことだよ」


 ジークが釘を刺すように言うと、エリーゼは「分かってるわよ!」と頬を膨らませた。


「しかし、そうであっても。クレイ殿の技術には驚かされた。これがあれば、今後の旅もこれまでほど険しくはないだろう」


 アルトリウスは、腰の剣に手を添えながら答えた。その瞳には、失われた過去への不安よりも、これから進むべき道への確かな光が宿っている。


「しかしお二人さんはお気楽でいいこった。ま、そうでなくちゃ、この先とても持たないぜ」


 ジークが皮肉交じりに笑いながら、焚き火に薪をくべた。静かな夜のキャンプ地で、これからの旅に思いを馳せる。そして、三人は夜の海へと視線を投げた。その視線の先には、これから向かうリアルドがある。そして、その道の途中には、軍事国家メリディウスの城下町があり、神聖な巫女の集う聖都ソラスがある。


「ソラスってどんな所かしら?」

「そうだな、綺麗な街ってとこだが、そんな大したもんでもねえよ」

「あら?行ったことあるの?」

「まあな、昔ちょっとな」


 いつもの飄々としたジークの受け答えに、エリーゼは目を丸くして見ていたが、すぐにアルトリウスの方に目を向けてニッコリと笑った。アルトリウスも微笑んでそれに答える。


「まあ、行けば分かるさ。ソラスも、リアルドもね」

「そうね、でもその前に、メリディウスを通り抜けないとね!」


 三人はまだ見ぬ新たな土地にそれぞれの思いを重ねていた。それは静かに、そして威厳をもって彼らを待つのだった。


2. バルトロの回想:石の記憶


 その少し前。ポート・アンカーの中心街から少し離れたバルトロの執務室では、主が一人、卓上のランプを消し、黄金色の夕陽が差し込む陰影の中に佇んでいた。


 豪華な革張りの椅子に深く腰掛けたバルトロは、手元のクリスタルグラスに、市価では決して出回らない最高級の琥珀色の古酒を注いだ。その芳醇な香りが鼻腔をくすぐるたび、彼の意識は、三十年以上も昔の、凍てつくような地下道の記憶へと引き戻されていった。


 それは、若き日のバルトロが、エグザルティアで取り返しのつかない「下手」を演じ、暗い地下牢のさらに下、処刑を待つだけの汚泥にまみれた地下道に這いつくばっていた時のことだ。逃げ道はなく、追っ手の重い靴音が死神の足音のように石畳に響いていた。その音を聞きながら、このまま泥水の中で終わるのだと、バルトロは悟っていた。


 だが、その冷たい絶望の空間に、場違いなほどの気品を纏った一人の男が姿を現した。若き日の、まだ瞳に迷いのなかったウィルだった。


 ウィルは、泥にまみれながらも這い上がろうとするバルトロの前に立ち、無造作に腰を落とした。そして、逃亡者の首に刃を当てる代わりに、懐から一本の最高級の酒瓶を取り出し、バルトロの前に差し出したのだ。


「……目は死んでいないな」


 ウィルの放ったその一言は、死刑宣告よりも重くバルトロの胸を刺した。


「……これを飲むんだな。生き延びる力があるなら、そこから先はお前次第だ」


 ウィルはそう言うと、衛兵たちの目を逸らすための鍵を置いた。


「なぜ……、助ける?」


 バルトロはそう問いかけたが、ウィルは何も言わずに少しだけ笑うと、風のように去っていった。


 ウィルが去った後、バルトロはその酒瓶をしばらく見つめた。毒かもしれないと思ったが、それでも、あの男の瞳には嘘がなかった。貴族など皆同じだと思っていた自分の価値観が、その一瞬だけ揺らいだ。そして、その琥珀色に輝く酒を一気に飲み干すと、すぐにその場を離れた。


 なぜ見ず知らずの罪人を救ったのか、その真意は今も分からない。だが、あの日の酒の熱さと、ウィルの眼差しだけは、三十年経った今も忘れていない。


3. 宿命の交差


 バルトロはグラスを回し、揺れる琥珀色の液体を一口だけ口に含むと、それをゆっくりと飲み込んだ。


「……ウィル。お前がいつか言っていた『目は死んでいない』という言葉。今日、俺はそれを別の男の瞳の中に見たぜ」


 そう、アルトリウス、と呼ばれていた。しかし、あの佇まい、そしてあの鎧と剣。あれはエグザルティアのエリオス王子に間違いない。記憶喪失とのことだが、去り際に見せた、曇りのない、それでいて芯の強い真っ直ぐな眼差し。それは、かつて地下道で自分を救い上げた、若き日のウィルの面影そのものだった。


 現在のウィルが何を考え、何を求め、アシュベリーで何があったのか。何を成そうとしているのか。バルトロにはまだ全容が見えていない。エグザルティアで起きている異変は、まだ表面的にしか伝わっていなかったが、死んだとされるエリオス王子が目の前に現れたのは何か意味があるに違いない。バルトロには、確かな予感があった。


「俺がついさっき救った命。そいつらが、今、お前の元へと向かおうとしている。これは俺の恩返しか、それとも引導か……。皮肉なものだな」


 バルトロは最後の一滴を喉に流し込むと、窓の外に広がる広大な景色を見つめた。彼がエリーゼたちを見逃し、密航を手助けし、偽の手配書でカムフラージュを施して自由を与えたのは、単なる気まぐれではない。


 それは、三十年前の地下道でウィルが自分に対して行った「賭け」への、彼なりの回答でもあった。


「エグザルティアでいったい何が起きているのか」


 バルトロは窓に歩み寄り、遠い空を見上げた。


「ウィル。あんたがなんかヤバいことになってるってことは分かっている」


 バルトロの眺める視線の先、西に広がる険しい山脈の向こう側。そこがエグザルティアである。


(あんたを救ってやりたいんだ。あの日、俺を救ってくれた時のように)


 沈みゆく西日が、バルトロの刻まれた皺と、決意を秘めた瞳を赤く照らしている。その光は、これから始まるであろう動乱の未来を明るく照らしているように思われた。


(俺の選択は……。間違ってないよな、ウィル)


4. 次なる舞台への序曲


 夜明けが近い。


 焚き火がまだくすぶり続けるキャンプでは、立ち込める朝霧の中、新たな一日を告げる森のざわめきが遠くから聴こえてくる。大きく伸びをしたエリーゼは、隣に立つアルトリウスの肩を力強く叩いた。


「ささ、行きましょうか!これまでの私たちとは違うわよ。フフ、本当の『聖女』の恐ろしさを教えてあげなきゃいけないんだから!」

「ああ。記憶の断片が呼んでいるような気がする。私が行くべき場所へ」


 アルトリウスは力強く頷き、ジークもまた、どこか複雑な表情を隠しながらも肩をすくめた。


「そうだな、俺もこいつにケリつけとかないとな」


 ジークは折れた短剣を腰に仕舞いながら、前を向いて歩き出した。朝日を浴びた大地が彼らの行く末を明るく示し、その運命に従ってまっすぐに導いている。


 彼らが次に向かうのは、エリーゼの故郷リアルド。そして、その途中にメリディウスの城下町と聖都ソラスがある。


 その先には、かつてバルトロを救った「高潔なウィル」ではない、変節と狂気に染まった「国王ウィル」が、静かにその到来を待ち構えている。


 運命の歯車は、バルトロという男の手によって再び力強く回り始め、物語は、隠された真実へと加速していく。


ご覧いただきありがとうございました!

次回の第10話は、明日【6:40】に更新予定です。

■第10話 光の残響、乙女の絶叫


面白いと思ってくださったら、ぜひ【ブックマーク登録】や評価の【★】で応援をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。