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第6話 (幕間)不穏な影

1. ウィルの焦燥


 エグザルティア王宮の奥にある、国王の執務室。窓の外には夕刻の穏やかな王都の街並みが広がっている。人々は何も知らず、いつもと変わらぬ日常を過ごしていた。しかし、室内の空気はじっとりと、凍てつくような緊張感に支配されている。


 執務机に向かうウィルは、激しい頭痛と苛立ちに身を焦がしていた。表向きは、先代国王亡き後の混乱を鎮めた「聖君」として国民から絶大な支持を得ている彼だったが、その内心はこれまでの記憶とその恐ろしさに底知れぬ不安を抱いていた。


 アシュベリーでの凄惨な一夜から半月。国内では「エリオス王子は魔物との戦いの末、名誉ある戦死を遂げた」と大々的に喧伝されていた。民衆は悲劇の王子を悼み、その仇を討とうとするウィルの姿勢に熱狂している。しかし、王子の遺体は見つかっておらず、その最期を看取った者も一人として存在しない。


(エリオスは、間違いなく生きている……。間違いなく……。あの光は、そう容易に消えるはずがない)


 誰よりもそれを知っているのは、他でもないウィル自身だった。あの日、背後からまとわりつく闇の囁きに身を任せ、自らの手で甥を殺そうとしたのだ。そのほとんどは記憶に残っていない。しかし、正気に戻った一瞬、その一瞬だけは鮮明に覚えていた。そして、その隙に、絶望的な祈りを込めて「逃げろ」と叫んだのは自分なのだ。


 ウィルは密かに一人の男を呼び寄せた。表の騎士団には決して姿を見せない、彼と裏社会との橋渡し役となる「影」の情報屋だ。情報屋は音もなく現れると、膝をついて言葉を待った。


「獅子の意匠が刻まれた白銀の鎧をまとう男を捜せ……。身なりは浮浪者に等しいかもしれぬ。しかしその剣筋と眼光は、隠せぬはずだ。裏社会にのみ、内密に多額の懸賞金をかけろ。決して表沙汰にするな。……見つけ次第、息の根を止めろ。手段は問わぬ」


 冷徹な命を下すウィルの瞳には、かつての温厚な面影は微塵もない。黒い影に侵食され、すべてを凍てつかせるような冷酷な眼差し。情報屋が深々と頭を下げ、影に溶けるように消え去るのを、彼はただ冷たく見送った。


2. 罪の記憶と家族への想い


 情報屋が消えた後、ウィルは自室ではなく、今は主を失ったまま、誰にも使われることなく静まり返った大きな寝室へと向かった。きらびやかな装飾が施された大きな天蓋付きベッド。そこは、かつて最愛の妻と過ごした、この王宮で唯一の安らぎの場所だった。


 ウィルは力なくベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと震える手で顔を覆った。指の間から漏れる吐息は、熱に浮かされたように熱い。


「……お前を守ることができなかった。あの日、私が過ちを犯したばかりに」


 すべては数年前、病弱だった彼の妻が死の淵に立たされた時から始まった。医師がさじを投げ、暗い影が彼女の命を少しずつ吸い取ろうとしていたあの雨の夜。ウィルの耳元で、湿った土のような「それ」は囁いた。


(……助けたいか。この女の命の灯火は、もう間もなく尽きる。無駄だ。……神に祈っても無駄だ)


 姿は見えなかった。しかし、耳元に聞こえるその声は、すぐそこにいるかのように生温かく、そして低く湿り気を帯びていた。


「……何者だ!姿を見せろ!」


(私なら、その残酷な運命を書き換えることができる。本当だ…。対価は、安い。そうだ、お前の『力』を貸せ。我が手足となって、この汚れきった世界を無に返すのだ……。我に従え)


 一瞬の、本当に一瞬の迷いだった。


「助かるのか?彼女が……笑って……くれるのか?」


 絶望の中ですがった一筋の希望。その問いが脳裏をよぎった瞬間、ウィルの体は自分のものではなくなった。冷たい泥のような闇が肺を満たし、視界が一瞬で漆黒に染まった。


 次に彼が意識を取り戻したとき、目の前には冷たくなった実の兄、国王オーレリアスの姿があった。


「……ここはどこだ?私は、いったい……、何を……」


 胸から鮮血を流し、驚愕の表情のまま絶命している兄。そして自らの右手には、王家の血に染まった短剣が握られていた。


「ま、まさか……。兄上……兄上!!」


 悲鳴は、再び襲ってきた漆黒の意識の波によって、無慈悲にかき消された。


3. ルミナリス・シャドウ


 その後、国王オーレリアスはお忍びでの視察中に落馬し、そのまま不慮の死を遂げたと公式に発表された。


 ウィルは絶望的な困惑の中にいた。自分の行動を、その手に残る感触を、一切覚えていないのだ。しかし、その「失った時間」の中で、自らの手が王国を、そして愛する家族を壊し続けていることを、かすかに残った血の匂いと共に自覚せざるを得なかった。


 しかし一方で、影の力によって妻は一時的に奇跡的な快復を見せていた。青白かった頬に赤みが差し、かつての愛らしい笑顔を取り戻したのだ。ウィルはその「偽りの幸福」という麻薬にすがった。妻との日々に束の間の幸せを感じ、その間だけは不都合な真実から逃れることができた。だが、神が定めた寿命を歪めた報いは、あまりにも残酷だった。彼女の容態は突如として急変し、余命を数年延ばしただけで、結局は彼の腕の中から永遠に旅立っていった。


 そこからは、本当の地獄だった。


 影の声が、もはや頭を内側から削り取るような激痛と共に、二十四時間休むことなく鳴り響くようになった。そして、抗えば抗うほど、その声は強く、大きくなった。


(無こそが世の理……。形あるものはすべて汚れ、崩れ去る……。真の救済とは、完全なる無である)


(私の名は、ルミナリス・シャドウ。光を喰らい、すべてを静寂なる無へと還す者)


「……ルミナリス・シャドウ」


 その名を口にした瞬間、ウィルの喉の奥で、ドロリとした粘り気のある闇が逆流した。


 視界の端がすすけたように欠け、室内の豪華な調度品が、まるで朽ち果てた墓標のように歪んで見える。それは幻覚ではない。邪神の意志が、ウィルの目を通してこの世界を「無」へと上書きしようとしているのだ。黒く消えゆく視界の中、邪神の意志がウィルの体だけでなく、その精神をも蝕んでいく。


(……良い、それで良い……。王よ、お前の絶望こそが、我が糧なのだ……)


 脳の、その中心を直接爪で立てるような邪神の声。ウィルは何度も耳を塞ぐ。しかし、声は内側から響く。逃げ場など、どこにもなかった。それでもウィルは、残された僅かな意識の中で、国と家族の名だけを繰り返し思い浮かべていた。


 ――邪神。


 神話において、光の英雄たちによってこの地の底に封じられたはずの古(いにしえ)の災厄。その邪悪な思惑に、ウィルは愛という人間ゆえの弱さを突かれ、取り返しのつかない形で加担してしまったのだ。それが何を意味しているのか。もはや後戻りもできず、痛いほどにその感情が体中を突き刺してくるのだった。


 エグザルティア城の地下。かつて光の英雄たちが邪神を封じたと言われる、今や禁忌となった古い祭壇。そこから溢れ出す瘴気は、日を追うごとに濃くなり、王宮の内部まで深く浸食を始めている。王宮内は表向き整然としているが、その臭気は城内を埋め尽くさんとする勢いであった。


「私は……、取り返しのつかないことをした」


 己の不甲斐なさと、もはや後戻りできない罪の深さに、ウィルは一人、闇の中で慟哭した。その背後で、再び漆黒のオーラが蛇のように鎌首をもたげ、彼を締め付けようとしていることにも気づかず。


 指先に残る、生暖かい感触。それが何であったか、今のウィルには思い出すことができない。ただ、夢の中で繰り返されるのは、兄オーレリアスの、最期まで自分を案じるような悲しげな眼差しだけだった。


『ウィル、お前……は……』


 途切れた言葉の続きを、邪神の嘲笑がかき消していく。王宮の静寂は、もはや安らぎではなく、犯した罪を突きつける無言の断罪へと変わっていた。


 かつて慈悲深い王弟として慕われた男の面影は、今や崩れゆく王国の影に、深く、あまりにも深く飲み込まれていった。


 ――その頃。


 名誉の戦死と報じられた王子は、確かに生きていた。


 そして、己の本当の名前も思い出せぬまま、エリーゼたちと共に家畜運搬船の片隅に身を潜め、自由の街「フリーヘイヴン」へと辿り着くのであった。


ご覧いただきありがとうございました!

次回の第7話は、明日【6:40】に更新予定です。

■第7話 光の残響、乙女の絶叫


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