第12話 (幕間)月影のセレーネ
1. 遠き日の揺り籠
エグザルティアの北端、険しい山脈の懐に抱かれるようにして存在した「月影の里」。そこは、王家に仕える歴史ある隠れ里だった。
シルヴァ。――そう名乗るようになった彼女の記憶の底には、今でもセレーネだった頃の、一枚の美しい絵画のような光景が残っている。里の中央で輝く巨木「月光樹」の下、まだ少女だった彼女が、膝の上で弟の柔らかな髪を撫でていた、風ひとつない穏やかな夜の記憶だ。
「……姉ちゃん、お月様が綺麗だ」
「ええ。この月光樹が守ってくれる限り、私たちの里は永遠に平和よ。だから、安心しておやすみなさい」
それは、彼女がまだ剣の重みも、戦いの非情さも知らなかった頃の、かけがえのない原風景だ。月光樹は、子どもたちの遊び場であり、里の人々の集まる場所だった。そして、夜になると、人々を包み込むようにひときわ大きく輝いていた。
しかし、一族に生まれた運命は、彼女にただの少女であることを許さなかった。
里の掟に従い、幼い頃から始まった過酷な修練は、日常のすべてを戦いのための時間に塗り替えていった。
凍てつく滝に打たれ、視界を奪われた闇の中での立ち回り。倒れるまで行われる剣技の修練。気配のみで敵の動きを読む暗殺者としての訓練。それは彼女の柔らかな指先に硬いタコを作り、その瞳に「守護者」としての鋭さを刻み込んでいった。
「姉ちゃん、また稽古?」
「ええ、もう少しだけ。もう遅いから、先に寝てなさい」
そんな会話をしたのは、いつだったか。すでに弟と話すことも少なくなった。それでも彼女は、いつかこの腕で家族を、そして里のすべてを守れる強さを手にすることを、月光樹の輝きに誓っていたのだ。その誓いが、後に訪れる地獄への唯一の備えになるとも知らずに。
2. 月影の守護者
月日は流れ、彼女は一族の期待を背負う立派な戦士へと成長していた。里の任務をこなし、エグザルティアの「影」として実務を担う彼女の傍らには、常に愛用のロングソードがあった。それは彼女の半身であり、一族の誇りそのものでもあった。
悲劇が訪れたのは、ウィルが暫定国王として権力の座に就き始めた数年前のことだ。ある夜、前触れもなく里を襲ったのは、山脈の奥から溢れ出した、通常では考えられない規模の凶悪な魔物の群れだった。本来、里の高度な諜報網がこれほどの兆候を見逃すはずはない。
「……おかしい、結界が内側から喰い破られている!」
既に熟練の戦士であった彼女は、瞬時に剣を抜き放ち、里の精鋭たちと共に魔物の軍勢を迎え撃った。その剣筋は一撃で魔物の急所を貫く、正確無比なものだった。里の奥義をその身に宿した彼女の奮闘は凄まじかったが、絶望は「救援」という名の皮肉な仮面を被って現れた。
里を救う名目で現れたウィル率いる正規軍。しかし、彼らが放った矢の先は、魔物ではなく、傷ついた里の者たちに向けられた。仲間たちが次々と討たれていく。そのおぞましい光景は見るに堪えず、飛び交う矢は逃げ惑う里の人々に向かって容赦なく襲いかかっていった。そして、燃え盛る月光樹の炎の中、彼女は見てしまったのだ。軍の先頭に立つウィルの背後に膨れ上がる、粘りつくような「巨大な黒い影」を。それはウィルの背後から黒く広がり、何者も寄せ付けぬ気味の悪さで周囲を取り囲み、何本もの触手のようなものが宙を舞っていた。
――ルミナリス・シャドウ。
邪神。彼女の脳裏に浮かび上がるその言葉は、目の前の異形の影を見た瞬間、確信に変わった。それは昔、光の英雄たちによって封じられたという邪神の力だった。そして、その意志に呑み込まれた男は、真実を知りすぎる月影の一族を、その歴史ごと抹消しようとしたのである。信頼していた王家の刃が、守るべき同胞の背を冷酷に貫く光景。それは彼女の魂を永遠に砕くのに十分な、あまりにも残酷な裏切りであった。
3. 黒い影、絶望の炎
仲間たちが次々と倒れゆく地獄絵図の中、セレーネは一人、深紅の髪を返り血で染めながら闇へと消えた。里の任務で培った生存術と、長年の修練で磨き上げられていた実戦の剣技こそが、彼女をこの世に繋ぎ止めた唯一の武器だった。
そうしてたどり着いたのが、エグザルティア南部の都市アシュベリーだった。王都から離れ、同じ国内でありながら追手の目を欺きやすいその土地は、身を隠すには都合のいい場所だった。そして、そこには里から上手く逃げ延びた仲間たちが何名かいた。彼らはここアシュベリーの地で機会を伺う傍ら、仲間たちの安否の確認を急いだ。弟の行方は分からなかった。
しかし、仲間は徐々に増えていった。里の猛者たちは各々の力で確実に生き延びていてくれたのだ。しばらくの間、セレーネを中心としたレジスタンス活動は続いた。しかし、そんな彼らを待っていたのは、再び訪れる悲劇だった。またしても魔物の軍勢に取り囲まれ、逃げ惑う人々。
それは、月影の里と同じであった。彼らはその生き残りの行方を追って、ここまでやってきたのだ。そして、現れたエグザルティア正規軍。かつて見たおぞましい景色が脳裏をよぎる。
「またしても……、ウィル!」
果たしてウィルはそこにいた。背後に黒い影をまとって。
セレーネは果敢に戦った。仲間たちも勇敢に戦った。しかし、多勢に無勢、かつての里と同じ結末。アシュベリーは陥落する。絶望。それ以外の言葉は見つからなかった。
4. 捨て去られた過去
現在。城塞都市メリディウスの冷たい地下道で、シルヴァは一人、手入れの行き届いたロングソードを静かに鞘に収めた。
「……アルトリウス……いや、エリオス。お前にはあの日、月影の里で起きたことの『本当の結末』を見届けてもらわなきゃならないようだね」
ウィル。あの男の動向、そして、エリオス。これまでに調べ上げたあの男へと繋がる糸口が、見つかった。彼女は懐から、ひび割れた古い銀の仮面を取り出した。それは、セレーネという名を捨て、復讐の鬼と化した「シルヴァ」としての顔だ。
彼女は過去を捨てた。かつて弟の髪を撫でていたその手は、今では復讐の機会を伺う暗殺のための道具と化し、小刻みに震えている。
「ウィル……。あんたの中にまだ『人間』が残っているというなら、私のこの剣で、その邪神ごと貫いてやるさ。……それまでは、せいぜい王座で夢でも見てるんだな」
セレーネという名前。その名を最後に呼ばれた日がいつだったか、思い出すことはなかった。仮面を被る瞬間、彼女の瞳から少女時代の柔らかな光は完全に消え、冷徹な狩人の眼光だけが戻った。彼女にとって、アルトリウスにかかる懸賞金は、黒幕であるウィルへの道標だった。かつての同胞たちの無念を晴らすための、血塗られた道に過ぎなかった。
かつての故郷、月影の里に降り注いでいた穏やかな月光は、今や彼女の剣身を冷たく照らす復讐の光へと変貌を遂げていた。闇を切り裂く彼女の足取りには、迷いも慈悲も、もう残ってはいない。
ただ、月だけは、昔と変わらず彼女を照らしていた。
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次回の第13話は、明日【6:40】に更新予定です。
■第13話 リアルドの光、盾の目覚め
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