第90話『君を助けた人』
午後五時。
図書館の大きな窓から差し込む夕陽が、閲覧室の床を赤く染めていた。
静寂の中に響くのはページをめくる音だけ。
久瀬黎司は古びた資料を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
神崎修司。
死んだはずの男。
だが死亡後の目撃情報が存在し、さらに残されたメモは黎司たちを一つの児童施設へ導いていた。
点だった情報が少しずつ線になり始めている。
だが、その線の先にある真実だけはまだ見えない。
「……眠い」
向かい側で有馬がぼやいた。
「帰れ」
「ひどくない?」
「うるさい」
「探偵ってもっと格好いい仕事じゃないのか。なんで俺は五時間も古文書を読まされてるんだ」
「助手だからだ」
「ブラック企業だな」
有馬は机に突っ伏した。
その様子に白鐘紗雪が思わず吹き出す。
小さな笑い声。
ここ数日の緊張した表情ではなく、年相応の少女らしい笑顔だった。
有馬が胸を張る。
「ほら見ろ。俺がいると場が明るくなる」
「騒音源の間違いだろ」
「久瀬、お前いつか絶対刺されるぞ」
そんなやり取りの最中だった。
白鐘の動きが止まる。
手にした資料を見つめたまま固まっていた。
笑顔が消える。
血の気が引いていく。
黎司はすぐに気づいた。
「白鐘?」
返事がない。
視線だけが紙面へ釘付けになっている。
黎司は立ち上がり、資料を覗き込んだ。
そこに記されていたのは施設名だった。
神崎修司が勤務していた記録のある施設。
その名前を見た瞬間だった。
白鐘の肩が小さく震えた。
「……どうした」
「わからない」
声が掠れていた。
「でも……この名前……」
次の瞬間。
白鐘の瞳から焦点が消えた。
身体が傾く。
黎司は反射的に肩を支えた。
「白鐘!」
耳鳴り。
遠ざかる音。
白鐘の視界が揺れる。
そして。
記憶の扉が、わずかに開いた。
――長い廊下。
――夕暮れ。
――古い木造建築。
小さな子供たちが走り回っている。
笑い声。
誰かが呼んでいる。
『紗雪!』
懐かしい声。
優しい声。
振り向こうとした瞬間。
映像は途切れた。
「っ……!」
白鐘は大きく息を吸った。
額には汗。
呼吸も荒い。
黎司は静かに椅子へ座らせる。
「見えたのか」
白鐘はゆっくり頷いた。
「少しだけ……」
有馬も表情を引き締める。
「記憶?」
「たぶん……」
白鐘は自分の胸元を握った。
怖かった。
だが同時に。
忘れていた何かへ近づいている感覚があった。
黎司は資料を見つめる。
神崎修司。
施設。
白鐘紗雪。
偶然で済ませられる段階ではない。
「有馬」
「おう」
「施設関係者を洗え」
「了解」
有馬が再び資料の山へ飛び込む。
数分後。
「見つけた!」
閲覧室中に響く声。
周囲の視線が集中する。
司書が睨む。
有馬は即座に頭を下げた。
「すみませんでした」
「反省が早いな」
「生存本能だ」
小声になった有馬が一冊の資料を差し出した。
職員名簿。
施設関係者一覧。
その中に。
神崎修司。
確かにその名前があった。
白鐘が息を呑む。
「本当に……いたんだ」
黎司はページをめくった。
さらに奥。
活動記録。
保管写真。
そして一つの封筒。
経年劣化で端が茶色く変色している。
黎司は慎重に写真を取り出した。
古い集合写真だった。
施設前に並ぶ子供たち。
数名の職員。
そして中央には若い頃の神崎修司。
有馬が呟く。
「若いな」
「お前も年を取る」
「夢のないこと言うな」
だが誰も本気では笑えなかった。
白鐘が写真を見つめていたからだ。
まるで吸い込まれるように。
写真の奥を。
遠い過去を。
探しているように。
そして。
白鐘の瞳が大きく揺れた。
「……え?」
黎司も気づく。
神崎の前。
小柄な少女。
肩まで伸びた黒髪。
どこか不安そうな表情。
有馬も息を止めた。
「これ……」
誰も続きを言わない。
必要なかった。
白鐘だった。
幼い頃の。
失われた記憶の中の白鐘。
静寂。
時計の針だけが進む。
白鐘の指先が震えていた。
写真を持つ手に力が入らない。
黎司は何も言わなかった。
急がせない。
答えを押しつけない。
真実は本人が掴むべきものだからだ。
白鐘はゆっくり目を閉じる。
写真に触れる。
その瞬間。
再び記憶が流れ込んできた。
冷たい冬の日。
施設の庭。
幼い自分が一人で泣いている。
周囲の声が怖かった。
未来が怖かった。
誰も信じられなかった。
その時だった。
一人の青年が近づいてくる。
しゃがみ込み。
目線を合わせ。
温かい缶ココアを差し出した。
『寒いだろ』
優しい声。
穏やかな笑顔。
震える小さな手を包み込む温もり。
『大丈夫』
その言葉。
その声。
白鐘の胸が強く締め付けられた。
写真の中の男。
神崎修司。
間違いない。
涙が溢れた。
止められなかった。
失われたはずの過去が。
孤独だった自分を支えてくれた誰かの記憶が。
鮮明によみがえる。
「白鐘」
黎司が静かに呼ぶ。
白鐘は写真の神崎を指差した。
涙で視界が滲む。
それでも。
今だけははっきりわかった。
神崎修司が何者だったのか。
少なくとも自分にとって。
彼は事件の容疑者ではなかった。
恐れる存在でもなかった。
白鐘は震える声で言った。
「この人……」
声が詰まる。
懐かしさと悲しさと感謝が胸を満たしていく。
「この人は――」
夕陽が差し込む。
長い影が伸びる。
神崎修司。
死んだ男。
事件の中心にいる男。
そして。
白鐘紗雪の人生を変えた男。
白鐘は涙を流しながら告げた。
「私を助けてくれた人です」
その言葉と同時に。
黎司の脳裏で一つの疑問が形になる。
もし神崎が白鐘を守っていたのなら。
なぜ彼は死ななければならなかったのか。
そして。
誰から白鐘を守ろうとしていたのか。
真実はすぐそこまで迫っていた。
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