第89話『死者の残した名前』
午後の図書館は静かだった。
ページをめくる音だけが響く。
久瀬黎司は古い新聞縮刷版に視線を落としていた。
死亡したはずの男。
神崎修司。
地下資料室で見つかった一枚の写真。
死亡記録より後に撮影された矛盾の写真。
もしあれが本物なら――死人が生きていたことになる。
あり得ない。
だからこそ、調べる価値があった。
「なあ」
向かいで有馬が机に突っ伏した。
「探偵ってさ」
「なんだ」
「もっと派手な仕事じゃないのか?」
「例えば」
「拳銃とかカーチェイスとか」
「日本の探偵は新聞を読む」
「夢がねえ……」
有馬が力なく沈む。
白鐘紗雪が思わず吹き出した。
その笑顔を見て、黎司は少しだけ肩の力を抜いた。
ここ数日、白鐘はどこか不安定だった。
地下資料室で見つけた写真。
それを見た瞬間から。
まるで心の奥に眠っていた何かが目覚め始めたように。
黎司は再び紙面へ視線を落とす。
死亡記事。
事故死。
停電事故。
遺体確認済み。
神崎修司。
記事そのものに不自然さはない。
だが黎司は知っている。
真実は記事の中ではなく、その周囲に潜むことがある。
数ページ前。
数ページ後。
地域欄。
行事欄。
寄付活動。
講演会。
無数の情報。
そして。
指先が止まった。
「……あった」
有馬が顔を上げる。
「マジか?」
「これだ」
小さな地域交流会の記事。
写真付き。
画質は荒い。
だが写真の端に映る男の顔を見た瞬間。
三人とも動きを止めた。
神崎修司だった。
死亡記事の日付の二日前。
まだ矛盾とは言えない。
だが。
死人になる直前の人間には見えなかった。
写真の中の男は笑っていた。
未来を知っている人間の顔ではない。
有馬が呟く。
「なんか……変だな」
黎司も同意した。
その時だった。
隣で小さな息を呑む音がした。
白鐘だった。
彼女は写真を見つめたまま動かない。
顔色が変わる。
呼吸が浅くなる。
「白鐘?」
反応がない。
「おい」
黎司が呼びかける。
白鐘の指先が震えた。
写真の男を見つめたまま。
遠い場所を見るような目で。
「この人……」
声が掠れる。
「知ってる」
空気が凍った。
有馬が椅子から半分立ち上がる。
黎司の鼓動が強く鳴る。
「どこで会った」
「わからない」
白鐘は苦しそうに額を押さえた。
「思い出せない……」
記憶。
失われた記憶。
封じられた過去。
それが今、確かに反応している。
「無理するな」
黎司は静かに言った。
だが白鐘は首を振る。
「でも……」
瞳が揺れる。
涙が滲む。
「覚えてる」
「何を」
「笑ってた」
白鐘の声は震えていた。
「この人……すごく優しく笑ってた」
その言葉だけで十分だった。
神崎修司は白鐘の記憶の中に存在する。
偶然ではない。
この事件は確実に白鐘自身へ繋がっている。
数分後。
有馬が缶コーヒーを差し出した。
「ほら」
「ありがとう」
「倒れんなよ」
白鐘が小さく笑う。
有馬は黎司を見た。
「お前もな」
「何が」
「顔」
「顔?」
「犯人見つける三秒前みたいな顔してる」
「そんな顔はしてない」
「してる」
白鐘が頷いた。
「してます」
「白鐘まで」
「してます」
二対一だった。
有馬が深いため息を吐く。
「探偵って怖いな」
「偏見だ」
「いや事実だ」
白鐘がまた笑う。
その笑顔を見ていると。
黎司は妙に安心した。
すると白鐘が不意に袖を掴んだ。
ほんの一瞬。
だが確かな感触。
黎司が振り返る。
白鐘も気付いたらしい。
耳まで赤くなる。
「あ……ご、ごめんなさい」
「いや」
有馬が天井を見上げた。
「青春だな」
「違う」
即答。
しかし白鐘は否定しなかった。
それどころか俯いてしまう。
有馬はもう何も言わなかった。
代わりに別の資料箱を開く。
そして。
固まった。
「……おい」
声色が変わる。
黎司は振り向いた。
「どうした」
「これ見ろ」
一枚の写真。
施設前で撮影された集合写真だった。
数人の男女。
全員が笑っている。
そして中央。
神崎修司。
間違いない。
地下資料室の写真と同じ人物。
だが。
問題はそこではなかった。
写真の裏面。
撮影日。
黎司はゆっくり読み上げる。
「九月十七日」
沈黙。
白鐘の顔が青ざめる。
有馬の喉が鳴る。
死亡記録。
九月十日。
七日前。
つまり。
死亡後に撮影された写真。
「そんな……」
白鐘が呟く。
「生きてる」
有馬も同じ結論へ辿り着く。
だが黎司だけは動かなかった。
写真をさらに裏返す。
そこに書かれた文字を見つめる。
手書きの署名。
神崎修司ではない。
別の名前。
知らない名前。
だが。
この一行が意味することは明白だった。
神崎修司は生きていた。
それだけではない。
別の名前を使っていた。
誰かが。
意図的に。
神崎修司という人間を死者にした。
黎司の背筋を冷たいものが走る。
事故死ではない。
隠蔽だ。
誰かが人間一人を社会から消した。
「……なるほど」
黎司は静かに呟いた。
白鐘が顔を上げる。
有馬も息を止める。
黎司は写真を握り締めた。
「神崎修司は死んだんじゃない」
静寂。
図書館の時計だけが時を刻む。
そして黎司は続けた。
「誰かに殺されたことにされたんだ」
白鐘の瞳が見開かれる。
有馬が息を呑む。
その瞬間。
写真の束から一枚の紙が滑り落ちた。
床へ落ちる。
黎司が拾い上げる。
ただのメモだった。
だが。
そこに書かれていた名前を見た瞬間。
黎司の表情が凍った。
白鐘が震える声で尋ねる。
「……何が書いてあるの?」
黎司は答えなかった。
答えられなかった。
その名前は。
今この場にいる誰よりも。
白鐘紗雪と深く関わる名前だったからだ。
読んでいただきありがとうございます。
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