第88話『死者の現在地』
地下資料保管庫の蛍光灯が、じじ、と不快な音を立てた。
白い光に照らされたモニターの中で、一人の男が立ち止まる。
停電発生の三分前。
施設北棟通路。
映像は何度見ても変わらない。
そして、その事実も。
男は死んでいるはずだった。
「……もう七回目だぞ」
有馬が椅子の背にもたれながら言った。
「八回目だ」
黎司は視線を外さない。
「細かいな」
「細かい部分で人は死ぬ」
「探偵って全員そんな面倒なのか?」
「知らん」
短いやり取り。
だが黎司の頭の中では膨大な情報が動いていた。
証言。
死亡記録。
施設資料。
監視映像。
どれもが正しいように見えて、どこかがおかしい。
まるで完成したはずのパズルに、一片だけ別の絵柄が混じっているようだった。
その時だった。
「……っ」
小さな息を呑む音。
振り返ると、白鐘紗雪がモニターを凝視していた。
血の気が引いた顔。
強張る肩。
震える唇。
彼女の瞳だけが、映像の男に釘付けになっている。
「白鐘」
呼びかける。
反応は遅れた。
「あ……ごめん」
だが声は上ずっていた。
黎司は立ち上がる。
「何か思い出したか」
白鐘はすぐに答えない。
代わりに胸元を握った。
苦しそうに。
まるで心臓の奥で何かが暴れているかのように。
「この人……」
掠れた声。
「知っているのか?」
「分からない……でも……」
頭の奥が熱い。
誰かの声が聞こえる。
赤い光。
警報音。
焦げた匂い。
長い廊下。
走る足音。
そして。
『急げ!』
男の叫び。
白鐘の視界が揺れた。
「っ!」
身体が傾く。
倒れる寸前。
黎司が肩を支えた。
「白鐘!」
触れた瞬間、彼女の身体が小さく震えた。
呼吸が乱れている。
「落ち着け」
静かな声。
不思議と安心する声だった。
白鐘は必死に呼吸を整える。
胸が苦しい。
怖い。
なのに。
肩を支える手だけは不思議と離れてほしくなかった。
「……ごめん」
「謝るな」
黎司は短く言った。
その言葉に、少しだけ力が抜ける。
すると横から有馬が呆れた顔をした。
「お前らさ」
「何だ」
「事件よりそっちの空気の方が気になるんだけど」
「は?」
「は?」
白鐘まで反応した。
「いや、二人とも近い近い」
白鐘がようやく気付く。
自分が黎司の服を握っていることに。
「っ!」
慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい!」
「だから謝るな」
「お前本当に天然だな」
有馬が額を押さえる。
「そういうところだぞ」
「何がだ」
「だからそういうところだよ」
白鐘の耳が赤くなる。
緊張が少しだけほどけた。
だが。
老人の低い声が空気を変えた。
「その男を最後に見たのは、停電の直前じゃ」
三人が振り返る。
老人は映像を見つめていた。
「最後?」
「うむ」
「どこで見た」
「資料室へ向かう途中じゃ」
黎司の眉が動く。
「一人だったか」
「いや」
老人は首を振った。
「誰かと話しておった」
静寂。
「誰だ」
「見えんかった」
その証言が胸に引っ掛かる。
黎司は映像を巻き戻した。
停止。
再生。
停止。
男が歩く。
角を曲がる。
そして視界から消える。
そこで停電。
そこで記録は途切れる。
「……違う」
黎司が呟く。
「何がだ?」
有馬が聞く。
「死亡記録だ」
黎司は資料を広げた。
「この人物は停電後に死亡したことになっている」
「そうだな」
「だが証言と映像を重ねると矛盾する」
「どこが?」
黎司は画面を指差した。
「この男は誰かと接触している」
「だから?」
「その人物が一切記録に出てこない」
有馬が黙る。
確かに不自然だった。
事故なら説明できる。
だが事件なら。
そこに人間がいる。
消された人間が。
「現場を見よう」
黎司は立ち上がった。
地下通路は冷え切っていた。
コンクリートの壁。
古い配管。
湿った空気。
白鐘は歩きながら胸のざわめきを感じていた。
ここを知っている。
だが思い出せない。
記憶の向こう側に霧がかかっている。
そしてその霧の中に、確かにあの男がいる。
資料室跡。
立入禁止区域。
黎司は周囲を調べ始めた。
床。
棚。
壁。
細かな傷まで確認する。
その姿を見ていると、彼は本当に観測する人間なのだと思う。
見逃さない。
決めつけない。
見えるものの向こうを見ようとする。
「あ……」
白鐘が立ち止まった。
視線の先。
古い棚。
その瞬間。
脳裏に閃光が走った。
赤い警報灯。
誰かの手。
叫び声。
そして。
棚の裏へ何かを隠す男。
「そこ!」
思わず叫んでいた。
黎司が反応する。
「何だ」
「そこに……」
説明できない。
でも分かる。
黎司は棚の裏へ手を伸ばした。
指先が何かに触れる。
薄い紙。
封筒だった。
「見つけた」
有馬が近付く。
封筒の中には写真が入っていた。
三人が覗き込む。
映っていたのは。
あの男だった。
監視映像の人物。
死亡したはずの人物。
「おい……」
有馬の声が震える。
黎司は写真を裏返した。
そして。
動きを止めた。
沈黙。
白鐘も息を呑む。
「何?」
誰も答えない。
黎司の表情が変わっていた。
確信に近い顔。
有馬が写真を奪う。
裏面を見る。
そして。
「嘘だろ……」
そこに書かれていた日付。
死亡記録より三か月後。
あり得ない。
絶対にあり得ない。
だが。
写真はそこにある。
偽造の痕跡もない。
つまり。
今まで信じていた前提そのものが間違っている。
地下通路の奥から風が吹いた。
冷たい風だった。
誰かに見られているような感覚が一瞬だけ走る。
だが振り返っても誰もいない。
黎司は写真を見つめた。
全ての点が繋がり始める。
停電。
消えた人物。
白鐘の記憶。
施設事件。
死亡記録。
その中心にいる男。
そして。
決定的な矛盾。
「久瀬」
有馬が言った。
「お前、もう分かったのか」
黎司は静かに頷く。
「事件の前提が崩れた」
白鐘が息を呑む。
「前提……?」
「ああ」
黎司は写真を掲げた。
薄暗い地下通路の中で。
死亡後の日付だけが異様な存在感を放っている。
そして。
探偵は断言した。
「この人物は――死んでいない」
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