第87話『映像の中の少女』
地下施設の最深部へ続く通路は、まるで忘れ去られた記憶そのものだった。
ひび割れた壁。
天井から垂れ下がる無数の配線。
誰もいないはずなのに、遠くで機械が呼吸するような低い振動音だけが響いている。
久瀬黎司は歩きながら周囲を観察していた。
埃の積もり方。
足跡。
開閉された形跡。
些細な違和感を見逃さない。
その隣で歩く白鐘紗雪の様子だけが気掛かりだった。
顔色が悪い。
額には薄く汗が浮いている。
何度目か分からないほど、彼女はこめかみを押さえていた。
「紗雪」
黎司が呼ぶ。
「……うん」
返事はあった。
だが声に力がない。
「無理なら休め」
「大丈夫」
即答だった。
しかしその足取りは明らかに不安定だった。
大丈夫ではない。
それは本人が一番理解しているはずだった。
それでも止まれない。
ここまで来てしまったから。
自分の過去が、この先にあるから。
先を歩く老人が振り返る。
深い皺の刻まれた顔。
だがその目だけは妙に鋭かった。
「無理をさせるな」
老人が言う。
「知っているんですか」
黎司の問いに老人は頷いた。
「知っている」
そして白鐘を見る。
「君を」
白鐘の肩が小さく震えた。
「私を……?」
「白鐘紗雪としてではない」
静かな声だった。
それなのに胸を刺す。
「君の本当の名前を私は知っている」
空気が止まった。
有馬ですら言葉を失う。
白鐘は唇を噛んだ。
「教えてください」
老人は首を振る。
「言葉で聞くより、自分で思い出した方がいい」
「……」
「そのためにここへ来たんだろう」
そう言って歩き出す。
白鐘は何も返せなかった。
その背中を見ながら、有馬が小声で呟く。
「なあ黎司」
「なんだ」
「最近の俺たち、完全に探偵じゃなくて都市伝説ハンターじゃないか?」
「今さらだな」
「否定しろよ」
「否定できる要素がない」
有馬は頭を抱えた。
「普通の高校生やりたい」
「諦めろ」
「お前に言われると腹立つな」
思わず白鐘が吹き出した。
ほんの少しだけ。
けれど確かに笑った。
「ありがとう」
白鐘が言う。
「何が?」
「分からないならいい」
その笑顔を見て、有馬は照れ臭そうに鼻を擦った。
その直後だった。
「っ……!」
白鐘の身体が揺れた。
視界が歪む。
白い廊下。
泣き声。
閉じられる扉。
誰かの叫び。
知らないはずの光景が脳裏を貫いた。
「紗雪!」
倒れそうになった身体を黎司が支える。
白鐘は無意識に彼の袖を掴んだ。
強く。
本能的に。
離れれば消えてしまいそうで。
「……ごめん」
「謝るな」
黎司は短く言う。
「思い出せるなら思い出せ」
余計な慰めはない。
だがその言葉は不思議と安心できた。
白鐘は小さく頷いた。
そして再び歩き出す。
やがて巨大な扉の前へ辿り着いた。
老人が端末を操作する。
電子音。
重い金属音。
ゆっくりと扉が開いた。
その先に広がっていたのは保管庫だった。
無数の棚。
積み上げられた資料。
時間の匂いがする。
誰にも読まれず眠り続けた記録たち。
「残ってたのか……」
有馬が呟く。
「全部は消せなかった」
老人が答える。
「いや、消したくなかったのかもしれん」
黎司は棚へ向かった。
資料を確認する。
写真。
記録。
報告書。
断片的な真実。
その時だった。
「……これ」
白鐘が一枚の写真を拾う。
皆が振り向いた。
そこには数人の子供たちが写っていた。
同じ服。
同じ施設。
そして中央。
一人の少女。
白鐘だった。
今より幼い。
だが見間違えようがない。
「私……」
震える声。
写真の少女は笑っていた。
眩しいほど自然な笑顔だった。
その笑顔が逆に苦しかった。
今の自分には記憶がないから。
なぜ笑っているのか分からないから。
「覚えてない……」
写真を持つ指先が震える。
老人が静かに言った。
「覚えていなくて当然だ」
そして目を伏せる。
「君たちは多くを奪われた」
白鐘は何も言えなかった。
写真だけが静かに揺れていた。
その時。
「これだ」
黎司が棚の奥から古いディスクを取り出した。
ラベルが貼られている。
監視記録。
事件当日の文字。
老人の表情が変わる。
「まだ残っていたのか……」
「見られるか?」
「再生装置が動けばな」
全員が部屋の奥へ向かう。
古い端末。
有馬が電源を入れた。
数秒後。
画面が点灯する。
「生きてる」
ディスクを挿入。
読み込み。
ノイズ。
砂嵐。
そして映像が映った。
誰も息をしない。
監視カメラ映像。
日時表示。
事件当日。
間違いなかった。
無人の廊下が映っている。
数秒。
十数秒。
そして。
画面の奥から少女が現れた。
「……っ」
白鐘が息を呑む。
自分だった。
間違いなく。
だが違う。
どこか別人だった。
迷いがない。
怯えていない。
強い意志を持った目。
映像の中の白鐘は真っ直ぐ歩く。
途中で立ち止まる。
そして振り返った。
誰かを見るように。
優しく。
微笑んだ。
しかしそこには誰も映っていない。
それなのに。
確かに誰かがいた。
画面の向こうに。
白鐘は扉を開く。
消える。
数秒後。
施設全体が停電した。
映像が暗転する。
沈黙。
誰も言葉を発せない。
「違う……」
最初に声を出したのは白鐘だった。
「知らない……」
後ずさる。
目が揺れる。
「こんなの私じゃない」
写真より残酷だった。
映像は嘘をつかない。
事件当日。
彼女はそこにいた。
しかも偶然ではない。
何かを知っている人間として。
黎司は画面を凝視していた。
何度も。
何度も。
映像を見返す。
そして気付く。
違和感。
決定的な一点。
映像の白鐘は導かれていない。
逆だ。
誰かを導いている。
先頭に立っている。
「そういうことか……」
黎司が呟く。
「何か分かったのか?」
有馬が聞く。
黎司は答えない。
まだ確証がない。
だが事件の前提が崩れ始めていた。
白鐘は被害者だった。
そう思っていた。
しかし。
もし彼女が事件の中心だったとしたら。
真相はまったく別の顔を見せる。
その時だった。
停止していた映像が突然ノイズを発した。
誰も触っていない。
画面が一瞬だけ再生される。
最後の一コマ。
そこに映った人物を見て。
黎司の瞳が見開かれた。
有馬も。
老人も。
言葉を失う。
そして白鐘だけが震える声で呟いた。
「そんな……」
画面に映っていたのは。
絶対に生きているはずのない人物だった。
暗転。
沈黙。
機械音だけが響く。
そして黎司は確信する。
真実は今まで追ってきたものより、遥かに残酷だと。
読んでいただきありがとうございます。
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