第86話『地下へ続く扉』
――ゴン。
その音は、倉庫全体を震わせた。
朽ちた鉄骨が軋む。
天井から舞い落ちた埃が、懐中電灯の光の中で白く漂った。
白鐘紗月の肩がびくりと震える。
有馬は思わず息を止めた。
だが、久瀬黎司だけは崩れた床を見つめ続けていた。
耳を澄ます。
――ゴン。
再び。
今度は少し長い。
まるで誰かが閉じ込められた部屋の内側から叩いているような音だった。
倉庫の空気が一瞬で冷える。
「……聞こえたか?」
有馬が小声で尋ねた。
「ああ」
黎司は答える。
「地下だ」
白鐘の指先が微かに震えていた。
彼女は無意識に黎司の袖を掴む。
「誰か……いるの?」
誰も答えられない。
十年前に封鎖された施設。
存在そのものが記録から消された場所。
そこに人がいるはずがない。
だが。
音は確かに聞こえた。
「帰るか?」
黎司は静かに問いかけた。
白鐘は顔を伏せる。
長い沈黙。
そして。
「……嫌」
小さな声だった。
けれど逃げる声ではなかった。
「知りたい」
白鐘は地下を見つめる。
「ここで何があったのか」
「私に何があったのか」
その瞳には恐怖と同じくらい強い決意が宿っていた。
有馬が苦笑する。
「怖くないのかよ」
「怖い」
即答だった。
白鐘は唇を噛む。
「すごく怖い」
「でも……」
拳を握る。
「知らないままの方が怖い」
有馬は数秒黙り込み、
「……そういうの、主人公みたいな台詞だな」
と言った。
「私はヒロインだから」
「自分で言うな」
少しだけ笑いが生まれる。
張り詰めた空気がわずかに緩んだ。
しかし。
地下から漂う不気味な気配は消えない。
黎司は崩落した床へ近づいた。
しゃがみ込み、瓦礫を観察する。
割れたコンクリート。
不自然な沈下。
崩れ方が妙だった。
自然崩落ではない。
誰かが意図的に塞いだ痕跡。
黎司は床を指で叩いた。
コン。
軽い音。
少し離れた場所を叩く。
ゴッ。
鈍い音。
違う。
明らかに違う。
「ここだ」
有馬が近づく。
「分かったのか?」
「下が空洞になっている」
黎司は断言した。
「入口だ」
白鐘の呼吸が止まる。
その場所を見た瞬間だった。
頭の奥が熱くなる。
耳鳴り。
視界が歪む。
知らないはずの景色が流れ込んでくる。
白い廊下。
閉じた扉。
泣き声。
冷たい蛍光灯。
そして。
誰かの悲鳴。
「っ……!」
白鐘が頭を押さえた。
身体がふらつく。
黎司がすぐに支える。
「大丈夫か」
「ここ……」
白鐘の瞳が揺れる。
「覚えてる……」
「少しだけ」
有馬が表情を引き締めた。
「何を?」
白鐘は震える声で答えた。
「誰かが……助けてって……」
その言葉に三人とも黙り込む。
風が吹いた。
錆びた屋根が悲鳴のような音を立てる。
黎司は瓦礫に手をかけた。
「開ける」
有馬も隣に立つ。
「二人でやるぞ」
崩れたコンクリートを一つずつ動かしていく。
重い。
腕が軋む。
汗が流れる。
土埃が舞う。
十分。
二十分。
やがて。
床の一部が露出した。
そこにあったのは分厚い鉄板だった。
地下施設のハッチ。
中央には取っ手がある。
有馬が顔をしかめる。
「マジであったのかよ」
黎司は鉄板の縁を観察した。
錆びている。
だが。
完全には朽ちていない。
最近動かされたような痕跡。
薄く削れた跡。
「誰かが使っている」
有馬の顔色が変わった。
「つまり……」
「地下に誰かいる可能性が高い」
沈黙。
白鐘の喉が鳴る。
黎司は取っ手を掴んだ。
「開けるぞ」
有馬も反対側につく。
二人は力を込めた。
ギギギギギギ……
金属が悲鳴を上げる。
錆びた音が倉庫中に響く。
少しずつ。
少しずつ。
重い蓋が持ち上がる。
そして。
開いた。
瞬間。
冷たい空気が吹き上がった。
地下の闇。
湿った臭い。
薬品の残り香。
長年閉じ込められていた空気。
白鐘は無意識に後ずさる。
そこには階段があった。
地下へ続くコンクリート階段。
闇の中へ吸い込まれていく。
ライトを向けても底は見えない。
まるで巨大な口だった。
「行くか」
有馬が言う。
だがその声は固い。
黎司が一歩前へ出た。
その瞬間。
――コツ。
音。
三人の身体が凍る。
地下から。
確かに聞こえた。
――コツ。
――コツ。
足音。
ゆっくり。
一定の速度で。
誰かが階段を上ってくる。
白鐘が黎司の背中に隠れる。
有馬は無意識に拳を握った。
足音は止まらない。
近づく。
近づく。
闇が揺れる。
やがて。
光の届かない境界線に。
人影が現れた。
背丈は大人。
細身。
こちらを見ている。
顔は見えない。
だが。
確かに人だった。
倉庫の空気が張り詰める。
誰も動けない。
人影が一歩前へ出る。
光が少しだけ輪郭を照らした。
その瞬間。
白鐘の顔から血の気が消えた。
瞳が大きく見開かれる。
信じられないものを見た顔。
「そんな……」
掠れた声が漏れる。
黎司はその反応を見逃さなかった。
白鐘は知っている。
あの人物を。
十年前の記憶。
失われた過去。
その全てと繋がる存在を。
人影は静かに立っている。
そして。
白鐘は震える唇で、その名を呟いた。
「どうして……あなたが……」
地下の闇が、さらに深く見えた。
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