第85話『閉ざされた入口』
山を吹き抜ける風が、錆びたフェンスを震わせていた。
キィ……キィ……
まるで誰かが中へ入るなと警告しているようだった。
黎司はフェンス越しに研究施設を見上げる。
曇天の下に横たわる灰色の建物。
窓ガラスは砕け、外壁は剥がれ落ち、植物が壁面を侵食している。
十年前に閉鎖された施設。
そのはずだった。
「……妙だな」
黎司が呟く。
有馬が隣で首を傾げた。
「また始まった。探偵モード」
「違和感がある」
「どこに?」
黎司は施設全体を指差した。
「荒らされた形跡が少なすぎる」
有馬が改めて周囲を見回した。
確かに落書きはない。
侵入者が壊した跡も少ない。
金属類もほとんど残っている。
人気のない廃墟としては不自然だった。
「つまり?」
「誰かが近づかせないようにしている」
その言葉に空気が少し重くなる。
誰が。
何のために。
十年も経った今になって。
その答えはまだ見えない。
だが確実に何かが隠されている。
その時だった。
前を歩いていた白鐘が急に立ち止まる。
「……っ」
肩が震えていた。
黎司はすぐに気付く。
顔色が悪い。
「白鐘?」
返事がない。
彼女は施設の奥を見つめていた。
視線は一点に固定されている。
まるで何かを思い出そうとしているように。
「ここ……」
小さな声。
「来たことがある」
有馬が目を見開いた。
黎司は静かに問いかける。
「何を思い出した?」
白鐘は額を押さえた。
苦しそうだった。
断片的な映像が脳裏を流れていく。
白い廊下。
冷たい床。
無機質な照明。
消毒液の匂い。
誰かの泣き声。
そして――
地下へ続く階段。
「地下……」
白鐘が震える声で呟く。
「地下に行った記憶がある」
次の瞬間。
膝が崩れた。
黎司が咄嗟に支える。
細い肩が震えている。
恐怖なのか。
苦痛なのか。
本人にも分からないのだろう。
「無理するな」
「……うん」
白鐘は弱々しく頷いた。
だが黎司の服を掴む指は離れない。
その様子を見た有馬が口元を緩める。
「なあ」
「なんだ」
「お前ら本当に付き合ってないの?」
二人の返答は完全に重なった。
「違う」
「違います」
一秒後。
有馬が盛大に吹き出した。
「息ぴったりすぎるだろ!」
白鐘の頬が赤くなる。
黎司は無言でため息をついた。
緊張を和らげようとした有馬なりの気遣いだろう。
だが。
黎司の意識は別の場所に向いていた。
フェンス。
監視カメラの残骸。
新しい固定ボルト。
補修された金網。
そして――
地面。
しゃがみ込んだ黎司は土を指でなぞる。
雑草の伸び方。
雨水の流れ。
残された痕跡。
観察する。
考える。
繋げる。
やがて答えに辿り着いた。
「なるほど」
有馬が覗き込む。
「分かったのか?」
「この施設で守られているのは建物じゃない」
黎司は施設を見上げた。
「地下だ」
有馬の表情が変わる。
「地下?」
「建物は放置されている。でも地下への経路だけ徹底的に隠されている」
白鐘も息を呑んだ。
黎司は続ける。
「つまり誰かは今も地下を守っている」
風が吹く。
曇り空の下で施設は沈黙を守っていた。
十年前からずっと。
「十年前の事件か」
有馬が呟く。
「おそらく」
黎司は断言した。
記録が消された理由。
証言が食い違う理由。
白鐘の記憶が欠落している理由。
全てが地下に繋がっている。
三人は施設の裏手へ回った。
雑草が腰の高さまで伸びている。
朽ちた倉庫。
崩れたコンテナ。
そして。
白鐘が再び立ち止まった。
「……ここ」
今度は迷いがなかった。
彼女は真っ直ぐ倉庫を指差す。
「ここから入った」
黎司の目が鋭くなる。
倉庫の床。
崩落しているように見える。
しかし。
近付くと違和感があった。
沈み方が不自然なのだ。
自然崩壊ではない。
意図的に塞がれた跡。
有馬も気付く。
「おい……」
黎司はしゃがみ込んだ。
そして見つける。
足跡。
新しい。
雨の後に付いたものだ。
数日以内。
「最近だ」
有馬の声が低くなる。
「誰か来てるのか」
「間違いない」
十年前の遺跡ではない。
今も利用されている。
誰かが。
この地下を。
白鐘の顔から血の気が引く。
恐怖。
不安。
そして確信。
彼女は倉庫の中央を見つめ続けていた。
やがて。
掠れた声が漏れる。
「思い出した」
黎司と有馬が振り返る。
白鐘の瞳が揺れている。
記憶の欠片が繋がったのだ。
「入口は……」
彼女が指差した先。
崩れた床の中央。
そこだった。
その瞬間。
――ガン。
地下から音が響いた。
三人の動きが止まる。
空気が凍る。
錯覚ではない。
確かに聞こえた。
そして。
数秒後。
再び。
――ガン。
今度はもっと近い。
何かがぶつかっている。
いや。
誰かが叩いている。
地下から。
助けを求めるように。
有馬の喉が鳴った。
白鐘は青ざめる。
黎司だけが静かに倉庫の床を見つめていた。
十年前の事件は終わっていない。
隠された真実は今も地下に眠っている。
そして。
その真実は。
こちらへ手を伸ばしていた。
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