第84話『地下への入口』
白鐘がその名を口にした瞬間。
部室から音が消えた。
窓の外では運動部の掛け声が聞こえているはずなのに、黎司には何も聞こえなかった。
「……もう一回、言ってくれ」
自分でも驚くほど低い声だった。
白鐘は青ざめた顔のまま頷く。
「その施設……たぶん、そこです」
言葉を発するたびに苦しそうだった。
思い出したくないものを無理やり掴もうとしているように見える。
「絶対か?」
有馬が慎重に尋ねる。
白鐘は数秒迷った。
そして首を振る。
「絶対じゃないです。でも……」
胸元を押さえる。
「そこだって思うんです」
その仕草に、黎司は視線を落とした。
記憶は証拠にならない。
だが、感覚が真実へ繋がることはある。
少なくとも、これまでの調査では何度もそうだった。
机の上には地図。
失踪者の記録。
古い写真。
そして十年間見つからなかった答えの欠片。
全てが一点へ向かい始めていた。
「なら確かめるしかない」
黎司が言う。
白鐘の肩が僅かに震えた。
「怖いか?」
問いかけると、彼女は少しだけ笑った。
「怖いです」
正直な答えだった。
「すごく」
その声は小さい。
だが、逃げてはいなかった。
「思い出したら、全部変わる気がして」
窓から差し込む夕陽が白鐘の横顔を赤く染める。
「私が知らない私が出てきたらどうしようって」
黎司は返事をしなかった。
簡単な励ましが役に立たないことを知っている。
だから。
「逃げてもいい」
そう言った。
白鐘が目を見開く。
「え……?」
「知ることだけが正解じゃない」
部屋に静寂が落ちる。
数秒後。
白鐘は小さく息を吐いた。
「やっぱり優しいですね」
「違う」
「違わないです」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は少しだけ弱かった。
けれど、以前より強かった。
「でも」
白鐘は立ち上がる。
そして。
ほんの少しだけ。
黎司の制服の袖を掴んだ。
「一緒なら行けます」
その手は震えていた。
だが離れなかった。
黎司はその震えを見た。
恐怖を抱えたまま前へ進もうとしている。
その姿を。
「ああ」
短く頷く。
それだけで十分だった。
白鐘の表情が少しだけ柔らかくなる。
「はい」
その返事は、今までで一番強かった。
◇
「お前ら付き合ってる?」
有馬の第一声だった。
「違う」
「違います」
即答。
完全に同時。
有馬は吹き出した。
「息ぴったりじゃねぇか」
「黙れ」
「黙ってほしいです」
「さらに息ぴったり!」
有馬は腹を抱えて笑う。
白鐘の耳が赤くなった。
黎司は頭痛を覚えた。
「真面目な話をするぞ」
「逃げた」
「うるさい」
ようやく有馬は笑いを収める。
そしてテーブルへ古い資料を並べた。
◇
翌日。
資料室。
埃の匂いが充満していた。
「くしゅん!」
有馬が盛大なくしゃみをする。
「探偵助手失格だな」
「助手じゃない」
「じゃあ何だ」
「情報参謀」
「自称だろ」
言いながらも資料をめくる。
すると。
「……あった」
有馬の表情が変わった。
黎司が近寄る。
古い地方新聞。
隅に小さく載った記事。
『研究施設閉鎖』
たった数行。
事故。
設備不良。
閉鎖。
それだけだった。
短すぎる。
不自然なほどに。
「隠してるな」
黎司が呟く。
「だな」
有馬も頷く。
十年前。
何かがあった。
そして誰かが消した。
記事の余白が妙に目についた。
そこに書かれるはずだった真実ごと切り取られているように見えた。
◇
夜。
再び部室。
現地調査の打ち合わせが始まった。
机の上には地図。
施設周辺を示した航空写真。
「問題はここ」
有馬が赤ペンで囲む。
「立入禁止区域」
白鐘が呟いた。
「閉鎖から十年だぞ」
有馬が肩を竦める。
「普通なら解除される」
「されてない」
黎司が地図を見つめる。
「理由がある」
全員が理解した。
だからこそ危険なのだと。
しかし誰も引かなかった。
「行くんですね」
白鐘が言う。
「行く」
黎司は即答した。
彼女は少しだけ目を伏せる。
それから。
「なら私も行きます」
今度は誰も止めなかった。
◇
会議が終わる。
時計は二十時を回っていた。
有馬も白鐘も帰った。
部室には黎司だけが残る。
机の上に資料を広げる。
その中に航空写真があった。
何度も見た写真。
だが。
「……ん?」
違和感。
黎司は身を乗り出した。
施設の北側。
一部だけ黒く塗り潰されている。
印刷ミスではない。
意図的だ。
誰かが隠した。
何かを。
その時。
ガラリ、と扉が開いた。
「忘れ物……」
白鐘だった。
戻ってきた彼女は写真を見る。
そして。
凍り付いた。
「白鐘?」
返事がない。
顔色が消えている。
血の気が引いていた。
瞳だけが写真の一点を見つめている。
呼吸が浅い。
肩が震える。
まるで。
思い出してはいけないものを見てしまったように。
「どうした」
黎司が近付く。
白鐘は震える指を写真へ向けた。
「あそこ……」
声が掠れる。
瞳に恐怖が浮かぶ。
記憶の底から何かが這い上がってくる。
白鐘は唇を噛んだ。
そして。
絞り出すように呟いた。
「あそこ……地下がある」
沈黙。
世界が止まったような静寂。
黎司の視線が写真へ落ちる。
地下。
誰も知らなかった情報。
資料にもない。
新聞にもない。
記録にもない。
だが。
白鐘だけは知っていた。
十年前。
あの場所にいたから。
彼女の瞳から、一筋の涙が零れた。
「思い出した……」
震える声。
「私……あそこにいた……」
真実はもう目前だった。
そしてその地下には。
まだ誰も知らない十年前の闇が眠っている。
読んでいただきありがとうございます。
感想・評価励みになります。




